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オランダに勝ってバルセロナへ

 今年のバルセロナ・オリンピックのサッカーは、23歳以下という制限の付いた大会立ったが、オーストラリアはオセアニア予選を圧倒的な強さ(6戦全勝。得点23、失点1)で勝ち抜き、プレーオフで欧州第6組のオランダを抑えて代表権を得た。
 ホームで1−1、アウェイで2−2。アウェーゴール2倍の規定による、苦しい勝利だが、ファンバステン、フリットを生み出したあのオランダ、若手を育てるうまさでは世界が一目置くオランダになったのだから…。

 若者たちの勢いは恐ろしい。バルセロナ郊外、サバデルでの第1戦はガーナの技巧に1−3で負けたが、2日後のメキシコ戦は引き分け。7月30日、サラゴサではデンマークに3−0で勝った。そして8月2日、カンプ・ノウに登場した彼らはブロリンの率いるスウェーデンにも2−1で勝ってしまった。
 相手の至宝ブロリンがGKと衝突して膝を痛めたこともあったが、ブラゴジェビッチが鮮やかな中盤の指揮官ぶりを見せての勝利は、オーストラリアの強さがいよいよ本物であることを知らしめた。
 3日後の準決勝はポーランドに1−6で大敗したが、これは前半に1−2とリードされたオーストラリアが攻勢に出たところへカウンターを見舞われたため。ひたむきなまでの彼らの姿勢は、多くの観衆に好ましいものと映った。

 英国人を中心に、広い大陸に豊かな国を築いたオーストラリアは、第2次大戦後、ヨーロッパ各国、特に東欧、南欧の移住者が増え、その数約450万人。過去25年間に生まれた600万人の子供のうち、25%は両親のいずれかは外国生まれというほどになった。かつての白豪主義(白人国家)は来え、新しい時代に入っている。
 英国連邦の一つであっても、世界に門戸を開き、アジアとの関係を大切にするこの国では、サッカーのようなワールドスポーツが発展しないはずがない。
 これまでの調査では、オーストラリアのトップクラブは、あまりにも民族的な色彩を強く打ち出しすぎ、それが英国系社会の反発を招く、という説もあったが、新しい流れはそれを飲み込んでいくだろう。

 ふたつの地域リーグに分かれた全国リーグも、今や再び一つになり、14チームによるナショナルリーグとなった。そのひとつ、サウス・メルボルン・ヘラスに1991年から招かれた、かつてのハンガリーの名選手プスカシュはこう語る。
「オーストラリアには未来のワールドクラスがたくさんいる。昨年の6月、インブランドのフル代表がここを訪れた時、オーストラリアは0−1の好勝負を演じた。この時、イングランドの役員たちはオーストラリア選手の素質に驚いたが、まだまだたくさんの素材がいる」

 多くの民族や人種が一つになり、それぞれの個性やキャラクターが集合することで、サッカーというチームゲームのレベルは上がる――という私の仮説が、このオーストラリアでも実証される。これからもこの国のサッカーの発展を見つめていきたいと思う。


(サッカーダイジェスト 1992年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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