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カタール・サッカーの歴史は30年

 カタールにサッカーが持ち込まれたのは1916年、英国の保護領となって英国軍隊が駐留するようになってから。ただし土地の人たちにプレーが広まるのは第2次大戦後。カタール・サッカー協会が設立されたのは1960年だった。
 それより10年ばかり前にFA(サッカー協会)を創っていたバーレーン(1951年)がホスト国となって、第1回アラビアン・ガルフ・トーナメント(ガルフ・カップ)が開催されたのは1970年。サウジ、クウェート、カタールなどが参加した。第1回の順位は、クウェート、バーレーン、サウジ、カタールで、湾岸国のサッカーではクウェートの優位はこの時以来変わらない。

 カタールはペルシア湾に突き出した半島の大部分を国土とし、その面積は日本の3%、九州の半分くらいの広さ。平坦で、一番高いところでも100メートル以下。18世紀にアラビア半島内陸部のバニ・ウトバ族がこの地域に進出し、1882年にアル・ビタが建設され、いまの首都ドーハの基礎となった。19世紀に入って、支配者であった首長ハリファ家が西方の島バーレーンに移ったため、東部のサーニ家が勢力を大きく伸ばし、首長ムハマド・アル・サーニが1868年に英国と協定を結んだ。第1次大戦(1914〜1918年)のときに、トルコからの脅威に備えて1916年に英国の保護領となった――というのがここ200年ばかりのあゆみ。

 英国と仲良くなった1868年は、イングランドにFA(フットボール・アソシエーション)が創立された1863年から5年後で、「手を使わない、相手の向こうずねをキックしない」フットボール、つまり今のサッカーが英国人によって世界へ伝えられはじめたときだった。そして、第1次大戦の際の英国軍隊の駐留によって、兵士たちの間でこのスポーツが行なわれたため、アラブ人たちも見物したのだという。

 ついでながら、今年のオリンピック予選で日本とも試合をしたバーレーンは、瀬戸内の淡路島ほどの大きさのバーレーン島と、合計35の島々からなる島国だ。古くから真珠の算出で知られ、貿易の基地でもあった。ポルトガルやイランが占有していたのを、前述のハリファ家が支配した。イランがたびたび群島の主権を繰り返したので、バーレーンは英国と条約を結んで保護領となり、領土を侵されないようにした。したがって、バーレーンへも英国との交流を通じてサッカーが入るのだが、ここは1932年に石油が発見され、中東でも規模の大きい精油工場が建設されたため、その作業員のスポーツとしてもサッカーが広まった。

 地域によって多少の違いはあっても、大国サウジも、小さなクウェート、バーレーン、カタール、そしてその東南のトルーシアル諸国、いまのUAEも英国と友好関係を保ち、その交流のなかでサッカーが導入され、1930年代の石油の発見、産出によって経済が豊かになり、第2次大戦後にサッカーが急速に発展するといった図式は変わらない。さらに、それぞれの国は王政で、王家の一族に富と権力が集中していること、人口が少なくて、外国人労働者が多く抱えているところも似ている。

 第2次大戦直後のロンドン五輪からしばらくは、トルコが大会に顔を出している。ワールドカップでも1954年大会は西ドイツ、ハンガリー、韓国と同じグループに入り(当時はグループ内で各国2試合を行う)、西ドイツには負けたが韓国に勝ち、ハンガリーに敗れた西ドイツ(1勝1敗同士)と順位決定のプレーオフの後に敗退している。
 トルコは地理的には西アジアに入るが、サッカーの地域ではヨーロッパ連盟に属するため、これ以降はなかなか予選を突破できなくなった。
 また、イスラエルは、技術水準が高く、西アジアでは予選を勝ち抜いていたが、アラブ諸国がアジア連盟(AFC)に入って世界的な大会の予選に参加するようになってからは、国交のないイスラエルとの試合を拒否するために、1970年代からイスラエルは欧州や南米の予選に組み込まれることになった。

 そのワールドカップには、この地域から1978年にイラン、1982年にクウェート、1986年はイラク、そして1990年にはUAEが檜舞台を踏んだ。オリンピックでは76年のモントリオールにイラン、80年モスクワは、クウェート、シリア、イラク、84年ロサンジェルスはカタール、サウジ、イラクの3国、88年ソウルにはイラクが出場している。それぞれがアジア予選の激戦を勝ち抜き、“狭き門”をくぐっての価値ある参加だ。


(サッカーダイジェスト 1992年4月号「蹴球その国・人・歩」)

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