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74年W杯 ベルリンでのチリ

 太平洋をへだてたチリという細長い国――北は世界でもっとも乾燥したアタカマ砂漠、南は氷河と尖峰のパタゴニア、温暖、肥沃でワインを生む緑の中部、本土から西650キロの太平洋には、「漂流冒険小説」ロビンソン・クルーソーの舞台になったファンフェルナンデス群島がある。
 島といえば太平洋の孤島で、巨石像モアイで有名なイースター島も、3800キロ離れてはいるが、まさしくこの国の領土――。チリは私にはいつもロマンに満ち、不思議な魅力にあふれている。

 チリ代表の試合を初めて見たのは1974年西ドイツでのワールドカップ(W杯)だった。6月13日、フランクフルトでの開幕戦、ブラジル(前回チャンピオン)対ユーゴのゲームを見た次の日、ベルリンへ飛んでオリンピック・スタジアムで1組の第1戦、西ドイツ対チリ戦を取材した。90年W杯の優勝監督となったベッケンバウアーが28歳でキャプテン、70年W杯得点王ゲルト・ミュラーや、左足の芸術家オベラーツらの西ドイツに対して、チリは守りを固め、8万人の観衆とテレビ観戦の全ドイツ人をイライラさせた。ブライトナーのシュートで西ドイツは結局1−0で勝ったが、フィゲロアをスイーパーの前に置いたチリの守備重点は意外であり、失望でもあった。
 キックオフ直前に私の右手側のゴール後ろで、一群の人たちがシュプレヒコールし、旗を振りかざした。すぐ警察隊が旗などを取り上げたが、チリの軍事政権への反対デモだった。

 大会前年の9月、それまで3年間続いたアジェンデ政権が軍部のクーデターによって倒され、ピノチェット将軍をトップとする軍が政権を握っていた。
 1970年、選挙によって社会主義のアジェンデが大統領となった時、欧州のメディアは「南米で初めて選挙による合法的な社会主義政府の誕生」と評価し、ラテンアメリカで民主化の進んだ国――チリを讃美する人も多かった。
 それが3年後に軍と警察によるクーデターで崩壊し、大統領は官邸で自殺した。
 そんなチリの政情に対する反発がベルリンのスタンドにもあったわけだが、このときチリが大会に出場するのにもちょっとした問題があったのだ。


(サッカーダイジェスト 1991年8月号「蹴球その国・人・歩」)

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