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ソ連のボイコット

 チリは南米予選の第3組でペルー、ベネズエラと組み、ベネズエラが参加を取りやめたため2国の争いとなった。まずアウェーは0−2で敗れ、ホームで2−0の勝ち。モンテビデオ(ウルグアイ)での第3戦でチリが2−1と逆転勝ちした。
 ペルーは1970年メキシコ大会のベスト8に入ったチュンピタスやクビジャスなどのいる強チーム。劣勢を跳ね返しての1次予選突破は大きな話題となったが、その後さらに、もうひとつ問題が起こった。
 それは、欧州第9組勝者とのプレーオフだった。第9組のトップは、フランスとアイルランドをおさえたソ連。その第1戦はモスクワで1973年9月26日に行なわれた。

 人口2億5000万人、サッカーの登録クラブ数5万163、総登録プレーヤー430万人のソ連代表に、人口880万人、登録サッカークラブ数4350、プレーヤー登録総数28万人のチリ代表が挑む、それもアウェーのモスクワで――。しかし、ほとんどの予想を裏切って、チリは第1戦を0−0で引き分けた。 
 第2戦は当然チリのホーム、首都サンチャゴで予定されたが、その時になってソ連は「チリはクーデターの直後であり、チームの安全に問題がある」と、第3国に開催地を移すことを主張した。 
 FIFA(国際サッカー連盟)は、これに対し、まず10月下旬に視察団を派遣してスタジアムなどを調査し、チリ政府による試合並びに相手側チームに対する安全保障を取り付けたうえで、73年11月21日にプレーオフ第2戦をチリのサンチャゴで行なうと裁定した。しかしソ連は「サンチャゴのスタジアムは軍事政権が政治犯を収容している。このようなところで試合はできない」と拒否し、結局、第2戦は行なわれずチリが代表権を取得したのだった。

 ピノチェト政府が政権奪取の後、反対運動者に加えた弾圧については、いろいろな報道があったが、ではアジェンデ政権当時はそんなことはなかったか、というと実際にはよくわからない。ラテンアメリカでは政権の交代に軍や警察などの“力”が伴うことが多いのに、アジェンデ政権は合法的な選挙で選ばれたということで、欧米の記者たちは好感を持っていた。それだけにピノチェトの軍事力による政権奪取には非難の声も高かった。
 社会主義国の本家であるソ連としては、こうした情勢からもスポーツと政治とを切り離すことはできず、まず安全性という点からサンチャゴを否定し、それが取り上げられないとなると、さらに理屈をつけたものの、結局FIFAの裁定は変わらなかった。
 国連という政治の場でならソ連やアメリカなどの大国に拒否権があって、それもまた一つの機能として役割を果たしてきたが、サッカーの場では超大国ソ連も“拒否権”を使えなかった。

 伝えられた話では、チリFA(正確にはFFCだが)はソ連の試合放棄で戦わずに代表になったことはうれしいが、ソ連とのホームゲームがなくなったことで当てにしていた入場料収入(一説には当時で4,000万円)が消えたショックが大きかったという。サンチャゴ・スタジアムは8万人収容だから、その収入を大会前のトレーニングや遠征の費用に充てるつもりだった。実際チリの場合、ソ連への賠償をFIFAに提訴するとともに、大会参加チームに(大会後に)支給される分配金の前渡しを要求したほどだ。実際にどう処理されたかは、その時不勉強で私のメモには残っていないが、豪州、日本、ハイチ、米国と経て西ドイツへ入る遠征試合のスケジュールも取り消したのは確かだった。

 海外へ流出している選手の呼び戻しの際に要求される補償金も不足し、またコロコロをはじめトップチームもリーグ終了後は親善試合で金を稼ぐのに、代表の練習にスターを抜かれるのは困る、補償金がほしい、などと言い出していたという。
 いわばそれほどチリのサッカー経済は悪くなっていた、つまり国の経済が落ちていたということになる。
 したがって、チリ代表は準備不足。試合はもっぱら守りを固めて点を取られないようにし、スキをみて個人技によるカウンターでという程度のチームづくりしかできず、西ドイツ(0−1)に負け、東ドイツ(1−1)、オーストラリア(0−0)と引き分けて1次リーグ3位に終わった。

 守備的なチリを見て、いささか意外だったのには伏線がある。1969年に来日したウニベルシダ・チリというチームは極めてオーソドックスで、攻めも守りもバランスが取れていた。関西での1試合を見ただけだが、左サイドのウイングの見事なドリブルと、一人ひとりがブラジルなどの軽妙さとは違う、がっちりとした感じで、チーム全体の骨組みがしっかりしていた。時のナショナルリーグのチャンピオンだったから、まとまっているのも当然だろうが、74年の代表チームはそんな私のチリ・サッカーへの期待に応えてくれなかった。それは彼らの持つ背景、社会主義政策による経済の破綻とそれに続くクーデターといった、経済と社会の背景がチリ・イレブンにのしかかっていたのだろう。


(サッカーダイジェスト 1991年8月号「蹴球その国・人・歩」)

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