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“熱情的サッカー国”チリ

 日本リーグへの大量の選手移入で、わたしたちに身近になった南米サッカーだが、ブラジル、アルゼンチンなどに比べると交流の少ないチリ。だが、私には、太平洋を隔てたこの国は、自身の惨禍から立ち上がってワールドカップ(W杯)を開催した“熱情的サッカー国”の印象が強い。


チリ地震と三陸の大津波

 1960年(昭和35年)5月24日午前2時すぎ、日本の太平洋岸に突然大きな津波が襲ってきた。三陸沿岸と北海道東岸が特に大きく、宮城県石巻では6mの高波が押し寄せたという。死者・行方不明者あわせて139人、負傷者8721人、家屋全壊流出2830戸という大被害だった。
 やがてこの津波の原因が、日本時間23日午前4時25分(現地時間、22日午後4時25分)南米のチリで起きたマグニチュード9.5の大地震によるものと知らされ、秒速200mで一昼夜をかけて日本へ波が走ってきた自然の力の大きさと恐ろしさを感じたのだった。震源地はチリの首都サンチアゴから南720キロの、バルディビア市の沖の海中、西経74.5度、南緯39.5度。地殻変動は南緯39度から46度まで、1000キロにわたって生じた。
 このためチリの南部は大打撃を受け、津波などで死者は2,000人に及び、経済活動も停滞したという。そのためチリ体協は、1960年ローマ五輪への選手派遣を取りやめる――との声明を発表したほどだった。


「すべてを失った。だからワールドカップ」

 そんなチリがその年10月のFIFA(国際サッカー連盟)総会で、1962年W杯開催の承認を得たのには世界が驚いた。
 ヨーロッパでの開催が2度続いて、次は南米大陸での開催が期待され、アルゼンチンが有力視されていたが、地震の打撃にもかかわらず大会を開こうというチリの意欲がFIFA役員の心を開かせた。カルロス・ディットボーン組織委員会会長の「チリは全てを失った。だからこそW杯の開催を」という熱情あふれるスピーチは、総会出席者へ大きな感動を与えたという。実際に、チリ大会では、スタジアムの新設、改修は滞りなく、施設も良く運営も申し分なかった。
 大会前半はファウルが多くFIFA会長が特別通達を出したが、地元チリの大健闘(3位)と、人気のブラジルの優勝で大会は盛り上がり大成功だった。特に各国チームに対する地方FAや、地域のファンの気配りが好評だった。
 その準備万端を整えたディットボーン会長は、開会式の1ヶ月前に心臓マヒでこの世を去ってはいたが…。


南米3強を狙って

 南緯17.5度から56度にわたり、南米大陸の西南部を南北4,300キロ、東西は広いところで400キロ、狭いところは100キロの細長い地域を占めるチリ。北は乾燥地のアタカマ砂漠から、南はパタゴニアの氷陸地帯と、中間に緑の沃地、東にアンデスの高峰と変化に富むこの国は、16世紀にスペインの統治下に入り、1818年に独立した。
 フットボールは1850年代に、港町バルパライソで英国人の子弟によって行なわれていたらしい。最初のサッカークラブ、「バルパライソFC」は1889年、チリFAは1895年の創立と歴史は古い。
 東隣のアルゼンチンの建国100年を祝う国際大会に招かれたのが、チリにとっての国際舞台初登場だった。世界で最も古い大陸の選手権、南米選手権大会(コパ・アメリカ)には、1916年の第1回からのオリジナルメンバーだ。

 アンデスの西という地域のハンデからか、チリのサッカーは、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルの3強との差はなかなか縮まらず、オリンピックでもアムステルダム大会(1928年)の初参加以来、めざましい成績はなく、W杯はウルグアイでの第1回大会におけるベスト8をなかなか越えられなかった。
 1962年W杯は、こうしたチリ・サッカーには大きな賭けであり、その成功で彼らは、世界にチリとチリのサッカーを知らせたのだった。

 W杯開催の成功はあっても、南米チャンピオンへの道は長く険しかった。
 ナショナルチームは、南米の王座を決めるコパ・アメリカの35回の大会で2位3回、3位5回の実績は得ても、コパ(カップ)を手にしたことはない。
 惜しかったのは1987年。1次リーグでブラジル(4−0)ベネズエラ(3−0)に快勝し、準決勝でコロンビアを2−1で破って決勝に進みながら、ウルグアイに0−1で敗れている。
 GKロハスの堅守と、長身DFアステンゴやMFピサロ、レテリエルとバサイの両翼からの攻めがうまく組合って、激しく速い動きは大会でも際立っていたのに――。

 南米一の願望は1991年にようやく達成される。ただし、ナショナルチームではなくクラブ。リベルタドーレス杯でコロコロが初優勝したのだ。
 勇猛で鳴ったインディアンの酋長の呼び名(ヤマネコ、の意味もある)を冠しただけに、チームは攻撃的で戦闘的なスタイルで国内随一の人気を持つが、アルゼンチンからの選手導入、ユーゴスラビア人コーチの採用などの強化策が結実した。
 地震や政変や経済苦境など、様々な困難を乗り越えるチリのサッカー人の心意気をトウキョウでも見せてほしい。


(1991年 第12回トヨタカップ プログラムより)

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