賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >南米で2番目に古いFA

南米で2番目に古いFA

 チリにサッカーが入ったのは、南米大陸では古い方だ。
 1818年、マイブの戦いでチリは独立を確定したが、独立戦争の英雄ベルナルド・オイギンスは自由主義的な政策をとったため、大地主や教会勢力に反対されて勢力を失ってしまう。
 1830年から保守派が支配し、ディエゴ・ボルターレスの指示のもとに、軍をも統括した。ペルー、ボリビア相手の戦争も経験しながらチリの経済は発展し、中央盆地では小麦を生産して欧州や北米に送り、北部で産出する銅は、19世紀後半は世界の生産の40%を超えた。こうした輸出入の貿易相手は主として英国で、港町バルパライソや首都サンチャゴにも英国人が住むようになった。

 記録によると、チリ最初のサッカークラブ「バルパライソ・フットボール・クラブ」が生まれたのは1889年だが、これより40年ばかり前の1850年代には、この港町の英国人学校でクリケットやフットボールが盛んに行なわれていたという。
 もちろんその頃は1863年のFA(フットボール・アソシエーション)設立以前だから、まだルールの統一が図られていない。フットボールといっても足だけのものか、手を使ったのか、ルールははっきりしない。ともかく英国の学校などでフットボールと呼んでいた競技が、太平洋に面した港町の英国人の師弟の間で行なわれていた。
 はるか太平洋の北西にある日本では、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀にやってきた頃の話だ。

 1893年にバルパライソとその東南東180キロのサンチャゴ市との最初の対抗戦が行なわれ、1895年に同市のクラブが集まって「チリ・フットボール協会」を設立している。協会設立からサッカーの伸びていくのは早い。サンチャゴの北400キロのコキンボ、1000キロのアントファガスタには1896年に、1400キロのイキケにはその翌年に、といった調子でサッカークラブが続々と誕生し、競技は全国に広がっていった。
 こうしたチリのサッカー熱はアンデスの東側のアルゼンチンにも伝わる。1910年のアルゼンチン建国100年を祝う国際大会で、チリはブエノスアイレスに招かれた。南米で最も早く協会を設立(1893年)し、サッカーの広まっていたアルゼンチンに2敗、ウルグアイに3敗した。

 このアルゼンチンの主唱で1916年から南米選手権が始まる。はじめはラプラタの2強にブラジルとチリの4ヶ国の大会。先進3強にチリは勝つことができず、後に加わるパラグアイ、さらに1927年から参加するペルーなどとともに4位争いを続けることになる。
 3強の一角に食い込めない不満はチリでサッカーが盛んになるにつれて募ってくる。1920年には第4回南米選手権を開催しながら1勝もできずに4位。翌年には参加を取りやめ、1922年ブラジル大会でも5位となる。そんなフラストレーションが大会中に役員の口論となって、FIFAからチリ協会が資格停止を食らったりした。

 1928年アムステルダム・オリンピックにサッカー選手団を送ったのは、1924年パリでのウルグアイの優勝に触発されたからだろうか。しかし本戦の前のポルトガルとの予選試合で2−4と敗れ、6300海里の大航海の成果としてはさびしいものになってしまった。
 この大会で隣国アルゼンチンは決勝に進み、同じく勝ち上がった前回チャンピオンのウルグアイと対戦。1−1の引き分けで勝負がつかず、2回戦を行ないウルグアイが優勝した。チリはコンソレーション(敗者復活戦)でメキシコに勝ち(3−1)、オランダと引き分け(2−2)たが、ラプラタ勢との差はヨーロッパの舞台でも開いたままだった。


(サッカーダイジェスト 1991年8月号「蹴球その国・人・歩」)

↑ このページの先頭に戻る