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プロリーグとコパ・アメリカ開催

 パリとアムステルダムの2つのオリンピックを制したウルグアイは、1930年に初のワールドカップ開催国となり、この第1回大会にも優勝した。チリはもちろん参加し、1次リーグ1組でメキシコ(3−0)フランス(1−0)に勝ったが、アルゼンチンに敗れて(1−3)上位へは進めなかった。決勝はアムステルダムと同様、ウルグアイ対アルゼンチンで、開催国が優勝し、オリンピックとジュールリメ杯の2冠となった。

 1933年に、チリ協会はプロフェッショナルを導入するとともに、全国リーグをスタートさせた。リーグ結成の8年前、1925年にコロコロというクラブが設立され、果敢に動く、攻撃的なチームはサンチャゴ市民の人気を集めた。

 ワールドカップは1934年と1938年は参加せず、1936年のベルリン五輪にもチームを送らなかったが、コパ・アメリカ(南米選手権)は参加するだけでなく、開催も引き受けた。1926年には3位に入った後、1941年、1945年の両大会にも3位に入賞している。41年はブラジルが不参加だったが、45年はウルグアイに勝ち、アルゼンチン、ブラジルに次いで3位だったから、特別に記念にすべき喜びだった。
 そして1955年の開催のときには、2位に食い込んだ。ブラジルは参加しなかったが、6ヶ国参加のなかで、アルゼンチンに0−1と敗れた他は、ウルグアイと引分け(2−2)ペルーに勝ち(5−4)パラグアイ(5−0)エクアドル(7−1)に大勝した。南米3強を崩す初めての快挙といえた。
 自国でのコパ・アメリカ開催によって、3強に近づいたと感じたチリのサッカー人たちは、経済の安定とともにワールドカップ開催の望みを持ち始めた。

 昭和35年(1960年)5月24日午前2時過ぎ、日本の太平洋岸を大規模な津波が襲った。死者、行方不明あわせて139人。負傷8,721人、流失家屋1,259戸、家屋半壊3,754戸という大被害も、三陸沿岸と北海道東岸で特に大きく、岩手県石巻では6メートルの高波が押し寄せた。
 この津波は、日本時間の23日午前4時25分(チリ時間、22日午前4時25分)、南アメリカのチリで起きたマグニチュード8.5の大地震によって発生したもので、秒速200メートルで一昼夜かけて日本へ波がやってきたのだという。“余波”を受けた日本で日本でも大被害だったのだから、震源地のチリはまさに壊滅的な打撃だったという。

 日本のスポーツ界は、その頃ローマ五輪に無糧準備の最中、その4年後に東京五輪を控えているものだから、空前の大選手団派遣に懸命だった。しかし、世間はオリンピックよりも安保闘争で騒がしく、1ヶ月後の6月15日に樺美智子さんの死亡という不幸も起きた。
 三陸沿岸の被害や、安保に気を取られ、震源地チリそのものの被害についての記憶はほとんどない。私たちは、その年10月のFIFA総会で、1962年のワールドカップ・チリ開催を聞いて驚くことになる。1954年スイス、58年スウェーデンと欧州開催が続き、62年はアルゼンチンが有力との予想だった。
 しかし、チリ代表が「地震の大きな災害から立ち直るためにもワールドカップが必要だ」とスピーチ、すなわち「私たちはすべてを失った。だからこそワールドカップを開催したい」の言葉はFIFA役員の心を打った。


(サッカーダイジェスト 1991年8月号「蹴球その国・人・歩」)

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