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クエカ・デル・ムンディアル

 私が生まれ育った神戸市の熊内(くもち)は、布引の滝や新幹線の新神戸駅に近い。新神戸駅から少し西へゆくと北野、いま観光名所にもなっている一角だが、その中山手通りにレストラン、バーを経営するチリ人、ダゴベルトさんがいる。
 通称ダゴさんに20年も前、私が聞かせてもらったレコードが「クエカ・デル・ムンディアル」。クエカというのは、チリの音楽の一つ。このクエカのリズムにのって、62年ワールドカップで3位になったチリを唄う。唄うと行っても、イレブンの名を唱える簡単なものだが、3位決定戦で決勝ゴールをあげたロハス、ブラジルとの準決勝(2−4)で2ゴールを報いたトーロやサンチェスなどの名が聞こえてくる。
 こういう選手の名を歌にしたのは、日本でもプロ野球の中日が優勝したときにあったのを覚えているが、ダゴさんはいまでも62年大会の話をすると、そのときの興奮を思い起こすという。

 そう、それはチリに住むすべての人の喜びの日だった、5月30日の開幕試合。対スイス戦(3−1)の勝利から、ベスト8進出の喜びの日々。6月13日、強敵ソ連を倒した夜は、アリカからプンタ・アレーナスまで4500キロは歌声にあふれた。6月10日にブラジルに敗れはしたが、3位に希望をかけ、6月16日の3位決定戦でタイムアップ直前にロハスのシュートが決まったとき、観衆はフィールドに走り込み、レフェリーは彼らを整理してからタイムアップの笛を吹いたのだった。

 会場となった4都市は見事に整備・運営され、「地震で何もなくなったからこそ、ワールドカップを開こう」といったデッドボーン組織委員会会長の言葉通り、ワールドカップはチリ人たちに大きな喜びと誇りを残した。
 そのデッドボーン氏は、開会式の1ヶ月前、4月28日に心臓麻痺で世を去ったが、彼も天国で喜びの日々を過ごしたことだろう。


(サッカーダイジェスト 1991年8月号「蹴球その国・人・歩」)

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