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南米クラブ・チャンピオンへの道

 リベルタドーレス杯に優勝することは、ナショナルチームの南米制覇とともに、チリ人にとって長い間の念願だった。
 1960年に始まった南米のクラブ・チャンピオンを決めるこのカップ戦は、もちろんヨーロッパのチャンピオンズ・カップに刺激されたものである。南米のクラブNo.1と欧州クラブNo.1を対戦させよう――という南米人の欧州への対抗意識の表れでもあった。

 ブラジル一国だけでもソ連をのぞくヨーロッパと同じ大きさ、といえば南米大陸の広大さを理解できるだろう。熱帯から寒帯まで、南北に長く、高地の国や町、低地、海岸の大都市と、気候も風土も大きな違いのあるこの大陸の各都市間、クラブ間のカップ戦は多くのハンデを超えて続けられ、毎回、すばらしいチャンピオンチームを生み出してきた。
 だが、チリのチームの名は今年まで書き込まれることはなく、31回の歴史は、
▽アルゼンチン14回▽ウルグアイ11回▽ブラジル3回▽パラグアイ2回▽コロンビア1回 の優勝記録となっていた。
 チリのクラブにも手の届きそうなときがあったのだが…。
 1973年にはコロコロが初めて決勝まで勝ち上がって、アルゼンチンの名門インデペンディエンテと対決。1、2戦は0−0、1−1の引分けの後、第3戦で1−2と惜敗した。  2年後の1975年、ウニオン・エスパニョーラが再び決勝でインデペンディエンテに挑んで、第1戦を1−0で勝ったが、アウェーの第2戦を1−3で落として(この頃は得失点差ではなかった)、第3戦も0−2で失った。

 1981年と82年にはチリの新興コブレロアが決勝へ進んだ。79年にはじめて1部リーグへあがったコブレロアは、コロコロなどとの古豪が経営難などで停滞している間にチーム力を上げて、2年続いてリーグ2位となったあと、ついにチリ・チャンピオンに輝いた。81年のリベルタドーレス杯では1次リーグでチリのウニベルシタリオ、ペルーのアトレチコ、スポルティング・クリスタルを連破し、2次リーグでもウルグアイのナシオナルとペニャロールの2強に対して3勝1分けで勝ち抜いた。
 ジーコやレアンドロ、ヌネスらのフラメンゴとの決勝でも第1戦は1−2で敗れたが、第2戦を1−0で勝って、中立地モンテビデオを舞台とした第3戦で0−2で敗れ去ったのだった。
 彼らを破ったフラメンゴが東京(トヨタカップ)でリバプール(イングランド)に完勝し、ジーコが世界的な舞台でスターとなったのは日本の皆さんもご存じの通り。

 そのコブレロアは翌年(1982年)にもファイナルまで進む。今度の相手はウルグアイのペニャロール。ウルグアイで最も伝統のあるこのクラブに対して、コブレロアはアウェイの第1戦を0−0。「アウェーで引き分け、ホームで勝つ」という注文通りのスタートとなったが、ホームでの第2戦はペニャロールの堅い守りに得点を奪えず、誰もが中立地での第3戦(プレーオフ)を考えたタイムアップ1分前、ペニャロールのカウンターから1点を失い、コブレロアの2度目の挑戦、チリのクラブにとっては4度目のチャンスもつぶれてしまった。
 1979年、若きロメロを擁したオリンピア(パラグアイ)が優勝して、初めて3強以外の国から南米クラブ・チャンピオンが生まれたが、1989年にナシオナル・メデリンがコロンビアに初めてリベルタドーレス杯を持ち帰り、次の年、オリンピアが再度パラグアイ・チームの優勝を記録した。

 そんな第4勢力の成功を眺めてきたチリにもついに栄光がやってきた。
 今年2月20日からはじまったリベルタドーレス杯の第2組で、チリ・チャンピオンのコロコロは、同じチリのデポルティボ・コンセプシオンとともに、エクアドルのリーガ・デポルティバ・ウニベルシタリオとバルセロナの2チーム、合計4チームによる1次リーグを行ない、3勝3分け、得点10、失点3と圧倒的なスコアで第2次ラウンドへ進出。
 ノックアウト・システム(ホーム&アウェー)による1回戦の相手はパラグアイ・ペルーの第4組で3位だったウニベルシタリオ。ペルーの首都リマへ乗り込んでのアウェイを定石通りの0−0で引き分けた。4万5千の応援をバックに勢いづく相手の攻めを防ぐのに、GKモロンが大活躍。そしてサンチャゴの第2戦は5万7戦の声援を受けたコロコロが、ウニベルシタリオの守りを崩して2−1の勝利を収めた。

 準々決勝の相手は、ウルグアイの強豪ナシオナル。ブラジル・ウルグアイの4チームで組んだ1次リーグ3組は3位で通過。2次ラウンド1回戦でボリビアのボリバルを破って進出してきたチーム。これまで3度、南米と世界のチャンピオンになっている。コロコロはこの古豪にホームで大勝し、アウェイでの失点を少なくして突破した。

 準決勝の相手はこれも伝統あるボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)。ブエノスアイレスのアウェイで失点をPKによる1点に抑え、サンチャゴでの第2戦に望みをつないだ。前半は0−0、後半のはじめに決定的なピンチがあったが、幸運にも切り抜けた後、59分と61分にバトルシオットが2ゴールを決めて2−0とリードした。ラトーレのゴールで2−1となったものの、コロコロはマルチネスがタイムアップ8分前に3点目を挙げた。このマルチネスはオフサイドだったとボカのGKモントージャがマルシリア主審(ブラジル)に抗議。あげく選手同士の争いとなり、ボカのジュンタとコロコロのヤネスが退場となった。ゲームは中断の後再開されて、結局3−1でコロコロが勝ち、1勝1敗ながら得失点差で決勝へ進んだ。

 チリのファンにとって、“5度目”のチャンスの相手は、ディフェンディング・チャンピオンのオリンピア。優勝チームの特権で2次ラウンド(16チーム)から加わり、1回戦でパラグアイのセロ・ポロテーニョ0−1、3−0、準決勝はコロンビアのナシオナル・メデリンを0−0、1−0と下して最終舞台への連続出場だった。
 私たちにとってもオリンピアは、昨年のトヨタカップで記憶に残るチーム。ミランの持つすべての能力を引き出してくれたのは、オリンピアの鋭さだったといまも思っている。

 そのオリンピアとの決勝だが、5月29日のアスンシオンでコロコロは0−0の引き分けという好スタートで始まった(同じ日、欧州チャンピオンズ・カップでレッドスターが0−0のスコアの後、PK戦でマルセイユを破った)。ゲームはオリンピアの素早い攻めで始まり、試合の半ばにコロコロも攻め返す展開となったが、得点は生まれなかった。ストライカーのヤネスを準決勝のレッドカードで欠いたコロコロにとってこの引分けは大きな収穫で、第2戦をより有利にした。
 1週間後の6月5日、サンチャゴでの第2戦は、前半の早いうちにコロコロが2ゴール。14分、17分の得点だけでなく、31分にはオリンピアのゴンザレスが退場処分となり、コロコロはさらに優勢。オリンピア懸命の反撃を、後半も冷静な守りで抑えて初のタイトルを獲得した。

 リベルタドーレス杯創設から31年、そしてまたチリに最初のクラブが設立(1889年)されてから102年目で得た「南米クラブ・ナンバー1」。喜ぶ人たちは、チリのあらゆる町、あらゆる通りで歌い、踊り、旗を振り、車を走らせた。
 ハメをはずした喜びの爆発は、サンチャゴでの事故につながり、7人が交通事故で死亡。一人はピストルで撃たれ、一人はナイフで刺され、そしてもう一人は試合会場近くでバスにはねられて――と合計10人の死者と128人の負傷者を出した。


(サッカーダイジェスト 1991年8月号「蹴球その国・人・歩」)

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