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62年W杯の見事な気配り

 1962年にチリは、2年前の大地震の災害を克服して立派に施設を整え、ワールドカップの開催に成功し、自分たちの代表チームも3位入賞を果たした。あのときは、地震のために60年のローマ・オリンピックへの選手派遣を取りやめにしたほどだったのに――。

 62年の会場となったのは、サンチャゴ、アリカ、ビニャ・デル・マル、ランカグアの4都市で、北方ペルーとの国境に近いアリカには新しくスタジアムが建設され、サンチャゴから西方120キロのビニャ・デル・マルと南80キロのランカグアには新しい道路がつけられた。
 アリカやランカグアなどホテルの少なかったところには、各国チーム用にホテルが設けられ、サンチャゴの第2グループ(チリ、西ドイツ、イタリア、スイス)のうちイタリアは航空大学を、西ドイツは陸軍士官学校の宿舎を借りた。サンチャゴのナショナル・スタジアムは6万人から8万人収容に拡張され、市の中心部からスタジアムまで広い大通りが作られた。
 サンチャゴのロス・セリロス空港では、参加チームが到着するたびに盛大な歓迎レセプションがあり、いつも何千人もの人々が集まった。イングランド代表が到着し、飛行機からターミナル・ビルディングで向かおうとタラップを降りたら、音楽隊は“ボギー大佐”を奏した。

「大会運営は誠にファンタスティックだった」と大会を取材した英国のスポーツライター、B・フェリエールはレポートに書いている。
「イングランドが1次リーグの根拠地としてランカグアは人口6万8千の商業都市だが、チームの宿舎は町の近くに鉱山を持つブラデン・カンパニーの社員保養施設が用意された。宿舎の近くにグラウンドがあり、映画館、レストラン、病院、商店などすべてそろっていたし、ゴルフ・クラブもテニスコートもあった。
 選手たちの好みに合うようにと、英国婦人が台所のスーパーバイザーを務め、かつてイングランドのプロ選手で、ブラデン・カンパニーの広報係、G・ロベルトがチーム付きの通訳となってくれる――といった調子で、すべてに細かい心配りがなされた」
 こうした各チームへの気配りは、一つにはランカグアの市長が第4組の組織委員長を務め、この地域のすべての人々が大会をサポートしたためとも言われている。
 いわば、それぞれの開催地が、土地の実情に応じて大会の運営にあたり、訪れたチーム(一律に対応するのではなく)それぞれに適応する接待をしたという。


(サッカーダイジェスト 1991年8月号「蹴球その国・人・歩」)

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