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監督1年目から結果を残したピッチ上の妖精 ドラガン・ストイコビッチ(中)

 監督就任の最初の年に、ドラガン・ストイコビッチはグランパスをリーグ3位に躍進させた。
 17勝8分け9敗(48得点、35失点)は2007年に比べると、数字の上では失点が45から35へと少なくなったのが目立つが、何よりチーム全体に動きの量が増え、一つひとつのプレーに強さが出てきたことだろう。

 選手時代に隔絶した実力を示したピクシー(妖精)が、監督の立場から話すことに多くの選手が従ったと言えるだろうが、チーム全体のアップの中で目立ったのが、玉田圭司の頑張りだった。Jでも屈指のスピードと突破力を持つこの左利きのFWは、停滞の時期があったが、故障回復とともに目に見えて積極的になった。年齢的に充実期に入った彼が回復し、さらに一段上を目指す姿勢を示したことが、チーム全体の進歩につながった。
 それはかつて、ストイコビッチが来日してしばらく、相手プレーヤーのファウルに悩まされ、レフェリーの判定に疑いを持ち、ときに退場処分まで受けるようになっていたときに、このチームの監督となったアーセン・ベンゲルが、彼にピッチ上での冷静を求め、チームのプレーに専念させたこと――つまり、最も経験ある実力者を最大限に働かせるために――個人指導するというやり方と似ている。

 イビチャ・オシムの例を挙げるまでもなく、かつての旧ユーゴスラビアの時代から、この地域は多くの優れたプレーヤーを育て上げるとともに多くの指導者を国外へ送り出している。
 そうした系譜の中で、プレーヤーとして一際輝いていたピクシーが、グランパスの監督として2年目の成果をどのように見せるかを、誰もが期待している。
 そのピクシーのサッカーの基礎を理解するために、彼の選手時代を振り返りたい。今回がその2回目――。


マラドーナとの対戦

 18歳でユーゴスラビア代表となり、ベオグラード名門、ツルベナ・ズベズダ(レッドスター・ベオグラード)のスターとなり、ヨーロッパでは名を知られるようになったが、日本で有名になるのは1990年のワールドカップ・イタリア大会からだろう。
 イビチャ・オシム監督の下、1次リーグD組で西ドイツに敗れた(1−4)が、コロンビア(1−0)UAE(4−1)に勝って2勝1敗でベスト16に進んだ。ノックアウトシステムの1回戦、対スペインではストイコビッチの2ゴールで強敵を破った(2−1)。78分の1点目はシュートのフェイクを入れて相手をかわしてのシュート。2点目はFKだった。
 次の相手はマラドーナのアルゼンチン。この準々決勝は31分にユーゴ側に退場者が出て10人となり、延長0−0の後、PK戦で敗れた。ユーゴの最初のキッカー、ストイコビッチがバーに当て、アルゼンチンの3人目、マラドーナがGKに防がれるという“異変”のあったPK戦だった。


マルセイユで不運の始まり

 この大会の後、ストイコビッチはフランスのオリンピック・ド・マルセイユに移籍、いよいよ西欧のビッグリーグでの活躍が期待されたが、なんと2戦目の対メツ戦でひざを痛めるという不運。突破した彼をエリア内で相手のGKがトリッピングしたためだった。
 それまで大きな故障のなかった彼にとって、この故障はしばらくの暗い時期の始まりとなった。
 1991年6月にイタリアのベローナに移籍した。
 ベローナのスタジアムは前述の90年ワールドカップのスペイン戦で彼がスーパーゴールを演じたところだったが、ここではいきなりレフェリーから退場処分、それも親善試合で主審に抗議したとして、6試合出場停止までついた(訴えによって4試合に減ったが……)。
 悪い話ばかりではなく、彼のもとのクラブ、レッドスターが91年12月8日のトヨタカップ(現・FIFAクラブワールドカップ)でチリのコロコロを破って、クラブ世界一となったこともあった……。

 ベルリンの壁の崩壊に象徴される東欧社会主義国の変革は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国からスロベニア、クロアチアが、次いでボスニアが独立し、その急激な変動の過程で戦争が始まった。
 92年、スウェーデンで開催されるヨーロッパ選手権(ユーロ)のグループ予選を勝ち抜いた新ユーゴスラビア(セルビア・モンテネグロ)の代表チームは、本大会開催の直前になって出場できなくなった。
 回復したストイコビッチをはじめ、デヤン・サビチェビッチ、ダルコ・パンチェフ、プレドラグ・ミヤトビッチ、ウラジミール・ユーゴビッチといった錚々たるメンバーがオシム監督の下に集まり、優勝候補とみられていたチームは、国連が新ユーゴスラビアに対する制裁措置を採択したため、ユーロ92での試合はできないことになった。
 60年のローマ・オリンピックでユーゴ代表が優勝して以来、久しぶりに大きな国際舞台でのタイトルを狙っていたのに――である。
 彼らに代わって出場した同グループ2位のデンマークが優勝したのも不思議な話だが。それは同時に、このときの新ユーゴ代表チームのレベルの高さを示すもの。大会を取材した私は、あらためて27歳のストイコビッチとその仲間、絶頂期にあった新ユーゴ代表の無念さを思った。


日本へ――

 歩き始めたのは9ヶ月くらい。2歳の誕生日の前にボールを蹴っていた――とは、ある雑誌に掲載されたストイコビッチの母親の言葉。フットボーラー、サッカー選手としての天分は幼いころからあったらしい。
 この地域から現れるプレーヤーは、ドリブルでも粘着力があり、頑健そうな体のわりに柔らかく、粘りのあるプレーヤーが多い。
 1970年代のウイングプレーヤーとして有名だったドラガン・ジャイッチは(レッドスター)は、その代表格に思えるのだが。ユーゴのプレーヤーとしては小柄な方(175センチ)のストイコビッチは、粘着力を持ちながらも“切れ”の良さの目立つプレーヤーであり、同じように相手の意表を突くプレーをする中で、軽やかさと美しさの際立つタイプだった。
 そのピクシーに対して、西ヨーロッパのプロフェッショナルの世界は、容赦なく体を痛めつけた。ケガはケガを生み、回復には時間がかかった。ユーロ92を締め出されるという不条理な中で、彼が日本に新しく生まれたプロフェッショナル・リーグに関心を持ち、イングランドで名声を得たゲリー・リネカーを受け入れた名古屋グランパスエイトというチームに目を向けたのは、不思議ではなかった。


★SOCCER COLUMN

ベンゲル監督とピクシー
 グランパスのJでの最高順位は、1995年のニコスシリーズ(17勝9敗)96年の通年(21勝9敗)99年のセカンドステージ(11勝1分け3敗)のいずれも2位。そのうち、95、96年はストイコビッチがグランパスに加わっての2年目と3年目だった。
 この好成績を収めたのが、フランス人のアーセン・ベンゲル監督。94年11月に就任し、96年9月まで指揮を執った。
 現在、プレミアリーグのアーセナルの監督として高い評価を受けているベンゲルは、最下位だったグランパスの強化のためにチームの規律を重んじ、選手たちの精進を求めた。中心となるストイコビッチには試合中に冷静を保ち、チームのために働くように指導し、これが成功して大幅な順に躍進と天皇杯優勝(96年1月1日)の結果を生んだ。
 長身で、学者的な風貌のベンゲルは母国語(フランス語)以外に英語もドイツ語も上手で、当時、マッチコミッショナーを務めていた私は、試合前に両チーム監督との打合せで、相手側、ガンバ大阪のジークフリート・ヘルト監督にベンゲルがドイツ語で説明する場面を見たことがある。
 その会議の後で、彼が私に「あなたは次にどの試合を見に行かれますか」と問い、私が「しばらくグランパスの試合はない」と言うと、「あるがとう」とニコリと笑った。  私がコミッショナーを務めた前の試合で、グランパスが負けたことを覚えていたのだろう。


(月刊グラン2009年3月号 No.180)

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