賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >日本で見せた数々の好プレーのなか、多くのプレーヤーの規範となるキックの確かさ ドラガン・ストイコビッチ(下)

日本で見せた数々の好プレーのなか、多くのプレーヤーの規範となるキックの確かさ ドラガン・ストイコビッチ(下)

ベンゲル監督との出会い

 1994年6月13日、ストイコビッチは名古屋グランパスと正式契約した。契約期間は7ヶ月だったという。
 ユーゴスラビアで若いうちから天才といわれ、名門レッドスターと代表での実績を携えて、フランスの強チーム、オリンピック・マルセイユに移った25歳のストイコビッチは、シーズン始めに大きなケガをする。大切なヒザの故障は、2度、3度と繰り返すことになり、回復には時間がかかった。そのうえ、89年に始まったソ連と東欧社会主義国の大変革と、それに続く紛争によって、彼の母国、ユーゴスラビアは国連の制裁を受け、サッカーの代表チームは国際舞台から締め出された。さらにマルセイユの八百長事件も加わって、29歳のストイコビッチは新天地をグランパスに求めた。

 スタートは上々とはいえなかった。リーグ開幕(93年)当初からチームにいたイングランドの大スター、ゲリー・リネカーは故障続きだった(93、94年リーグ通算18試合出場4得点)。ストイコビッチは自分と技術格差の大きい仲間との協調に苦心し、相手チームのファウルに悩まされ、レフェリーの判定に苛立つことが多かった。
 彼が本領を発揮するのは95年になってから。前年の12月にグランパスと契約したアーセン・ベンゲル監督の厳しい指導で、チームは再生し、ストイコビッチは体調を整え、冷静を取り戻してチームの中心となり、その高い技術を仲間に役立てるようになった。
 開幕からの10戦を2勝8敗と悪いスタートとなった95年、やがてグランパスは勝つ味を覚え、サントリーシリーズ(ファーストステージ)を4位とし、ニコスシリーズ(セカンドステージ)は2位となる。
 ストイコビッチはこの年、自らリーグ戦15得点を挙げるとともに、多くのチャンスを生みだした。サントリーシリーズ反攻のターングポイントとなった第17節対ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の決勝ゴールを生んだ。左CKを蹴ってファーポスト側に落とし、長身のトーレスのヘディングという後にチームの十八番(おはこ)となるゴールを演出した。チームの好調は天皇杯にも続いて、96年1月1日の決勝でサンフレッチェ広島を3−0で破って初のビッグタイトルを獲得した。

 このころ、94年のワールドカップ・アメリカ大会で優勝したブラジルからドゥンガをはじめ、多くの代表がJに加わり、高いレベルのプレーが見られた。しかし、多くのファンはストイコビッチのパスの精度、そのタイミングの取り方のうまさ、そして高速ドリブルと巧みなターンと、それに続くラストパスやシュートに感嘆し、いささか実利的になっていたブラジル勢よりも、華やかな彼のプレーに魅せられた。
 95年のJリーグMVPにストイコビッチが選ばれたのは、優勝チーム以外からの選出という点では型破りだったが、誰も意外とは思わなかった。

 イングランドの名門クラブ、アーセナルからの誘いにベンゲルは、96年夏にグランパスを去ったが、ストイコビッチは名古屋にとどまり、2001年までプレーを続けた。
 そのグランパスで彼は8シーズンにわたって、リーグ戦184試合57得点、天皇杯18試合6得点、ナビスコカップ30試合8得点、合計232試合に出場し、71ゴールを奪った。そのゴール一つひとつに彼の技術の高さや着想の素晴らしさが表れていたが、自らの得点だけでなく、先を見通したような攻撃の組み立てもまた見事だった。


右足でも左足でもパスとシュート

 左サイドからペナルティーエリア左寄りに侵入してきたときのストイコビッチのドリブルは、相手の守りには脅威――というより、手がつけられないという感じだった。縦に抜くと見せて内へ外し、シュートすると見せてはさらにかわす。美しく安定したフォームを保っている間に、守る側はバランスを崩して倒れてしまうこともあった。そのボールキープの後に繰り出すシュートは、相手DFの懸命のゴールカバーの間を抜いて、ネットに突き刺さっていた。
 FKやCKは正確無比だった。右足で蹴る左CKはニアでもファーポスト側でも自在にコントロールキックをして仲間に合わせた。ときに鋭く曲がるカーブを蹴って、直接ゴールへ送り込んだこともあった。FKは今の中村俊輔(セルティック=スコットランド)の左足のように右で曲げることもあったが、壁に入りこんだ仲間との協調で壁のすき間へ通すのも演じて見せた。

 利き足の右ほどでなくても、左足でもパスを出し、シュートを決めた。
 90年のゼロックススーパーカップで、ストイコビッチが右サイドから左へ大きく左足でロングパスを送り、平野孝がオープンスペースで受けて、そこからのクロスで奪った先制点は、今も頭に残っている。両足で蹴ることで彼のバランスの良さがあるのか、バランスが良いから両足を使えるのか――という理屈はさておき、ペナルティーエリア左寄りに現れたときに絶対的な強さを持つのは、縦に抜いて左足で正確なクロスパスができるという手を持っているから、自在の右を使っての数多くのフェイクプレーも成功させたのだろうと思っている。
 彼ほどの才能あるプレーヤーがいながら、グランパスが一度もリーグ優勝できなかったのは残念だが……。


あらためて学び取りたいキック

 ストイコビッチのプレーヤーとしての晩年に、ウェズレイというブラジル人のストライカーがチームに加わった。例のペナルティーエリア左外から、相手DFを前にして低いクロスをゴール正面に送り込み、ウェズレイがDFの前へ走り込んでヘディングで決めるのを見た。
 このときに、突っ立ったままの姿勢でノーステップでのクロスパスを蹴るうまさと、仲間の性格を見抜いて、それに合わせる判断力が衰えることのないのに感じ入ったものだ。  彼が生み出したサッカーの名場面を回想すればきりがないが、そこに彼の負けず嫌いとサッカーへのひたむきさ、そして天性の能力を見ることができたのは、長いサッカー記者生活の中で幸いなことだった。なかでも最も注目したのは、キックのうまさだった。日本では彼の柔らかさや、ドリブルをはじめとするボールタッチの精妙さに目が注がれていたが、そうした誰もが真似のできない独特の技術は、彼のキック力によってより大きな効果を表していたのを知った。
 日本人の平均とほぼ同じ大きさのストイコビッチは、足の大きさも同じくらい。足首を立てて蹴るインステップキックの正確さを軸に、さまざまなキックを使い分けていた。彼が選手を引退した後、グランパスにはまだ彼ほどのキッカーは現れていない。

 2年目を迎えた監督ストイコビッチは、チーム全体の向上を図るだろう。選手たちはこの不世出のボールプレーヤー、ファンタジスタであった彼を身近にして、その実際のプレーをいま一度分析し、第2のストイコビッチを目指して欲しい。かつて日本代表はジーコという万能プレーヤーを監督に迎えながら、その彼の持つ技術を選手たちは受け継ぐことができないまま終わったからだ。
 ストイコビッチという素晴らしいサッカー人によって、グランパスのプレーヤーはプロフェッショナルとしての心構えを多く学ぶだろうが、なによりも彼が選手時代に見せた技術を習得し、伝承して欲しい。そしてまた監督も、選手たちの個人力向上に手を貸して欲しいと願っている。それは日本サッカー全体のアップにもつながるものだから。


★SOCCER COLUMN

選手、ストイコビッチの栄光
【ユーゴ代表】79試合15得点
 ワールドカップ
  ・90年イタリア大会 ベスト8、5試合出場2得点
  ・98年フランス大会 ベスト16、4試合出場1得点

 ヨーロッパ選手権
  ・84年フランス大会、3試合出場1得点
  ・2000年ベルギー・オランダ大会 ベスト8、4試合出場0得点
  ※ユーゴ代表はグループ予選1位ながら、ユーゴスラビア内戦に対する国連制裁により92年スウェーデン大会の出場資格をはく奪された。
   また、94年ワールドカップ・フランス大会の予選も出場できなかった。

 オリンピック
  ・84年ロサンゼルス大会 3位、銅メダル獲得

【レッドスター・ベオグラード】
 86〜90年在籍。3年連続MVP。

【名古屋グランパス】
 94〜2001年在籍。天皇杯2回優勝(96、2000年)
 リーグ戦184試合57得点
 天皇杯18試合6得点
 ナビスコカップ30試合8得点

 Jリーグでは
  MVP1回(95年)
  ベストイレブン3回(95、96、99年)
  功労選手賞1回(2001年)
  オールスターサッカーMVP3回(96、98、2000年)


(月刊グラン2009年4月号 No.181)

↑ このページの先頭に戻る