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ロマーリオ(1)41歳で“自称1000ゴール”。数々の栄誉の上に得点記録に執着した

 私の心に残るストライカーの8人目は、ロマーリオ(本名ロマーリオ・ジ・ソウザ・ファリア)。ブラジル生まれで、欧州でも活躍し、94年米国ワールドカップでは、5得点を挙げてブラジルの24年ぶり王座奪回の功労者――。
 166センチ。今の時代では“小型”に属する体形で、私から見れば、シュートそのもののうまさや、シュートへ持っていく過程のうまさ、相手との駆け引きで見せる狡猾さという点で、まことに感嘆すべきプレーヤーだった。
 その技量の高さや、得点に絡む才智の高さに感嘆しながらも、ストライカーの系譜をたどり、記憶のページをめくるときに、ミロの色彩のような鮮烈さに欠けるのが不思議なのだが…。

 一つには、米国大会そのものが、灼熱の中でチームも選手も広大な大陸内の移動での疲れが出たこと。また、ディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)の薬物使用や、コロンビアの代表選手射殺といった暗い事件が大会中にあったことなどが、理由かも知れない。
 ブラジルを率いたカルロス・アルベルト・パレイラの手堅い勝ち方は、24年ぶりの優勝のためには当然と考えられても、やはりブラジルらしい華やかな攻撃の連発を望む人たちには物足りなかったことも、試合の模様を声高に語り合う楽しみを半減させたのかもしれない。

 マルコ・ファンバステン(オランダ)のように、88年欧州選手権決勝でのボレーシュート一発で、終生偉大なゴールゲッターの上位に据えられる者もいる。
 故国バスコ・ダ・ガマでのプロ生活から、オランダのPSV、スペインのバルセロナとそれぞれ実績を挙げ、国足舞台でも88年ソウル・オリンピックで銀メダル、大会得点王(7ゴール)。そして94年ワールドカップ優勝と最優秀選手といった栄誉を持つこのロマーリオが、私の記憶の中だけでなく、種々のサッカー専門誌による「20世紀の歴代ストライカー100傑」などの位置づけにも、10位前後にあるのは、いささか気の毒な気もするが…。
 ロマーリオ自身が40歳を越えて、なお現役プレーヤーを続け、1000ゴールにこだわったのは、あるいはペレと並ぶ大台のゴール記録を持つことで、自分自身の価値を世界中に認めさせたかったのかもしれない。

 2007年5月27日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム。あのブラジル・サッカーの聖地。1950年に建設され、世界最大20万人収容を誇った大スタジアムでのブラジル選手権、バスコ・ダ・ガマ対スポルチ・レシフェの試合で、バスコのロマーリオは48分にPKを決めて“1000ゴール”を達成した。
 ブラジル人にとってというより、多くのサッカー人にとって、このPKのシーンは28年前にサントスのペレがバスコ・ダ・ガマを相手に、PKで1000ゴールを達成したシーンと重なるものだっただろう。
 1969年11月19日のこのペレのゴールは、アルゼンチン人のGKアンドラーデの指先をかすめて入った。このときペレは29歳。41歳のロマーリオのシュートは、GKマラオンの飛んだ逆方向へ決まった。

 もっとも、このロマーリオの1000ゴールは、プロのキャリアでの公式試合だけでなく、ジュニア時代や親善試合なども加えられている“自称”1000ゴール。公式試合だけなら720得点から750得点の間という説もあるが、彼は自分で数え上げたゴール数で1000のカウントを目指し、今年3月のフラメンゴ戦で999得点を達成したあと、ひたすら「この1ゴール」を目指していた。
 1000ゴール達成によってゲームは中断され、彼のファン、家族も祝福に駆け付け、この日は試合というより“ロマーリオのゴールショー”“1000得点祭り”という風だったようだ。
 プロフェッショナルだから、こうした「記念ゴール」には当然、お金の問題もついてまわるが、私は40歳を超えてなおゴールに執着するところに、ロマーリオという男の本領を見る気がする。
 貧しい家に生まれ、自動車の窓ガラス拭きなどでお金を稼いだともいわれている環境の中でサッカーの腕を上げた。プロになると、代表合宿の女人禁制を破ってメンバーから外されるなどの“悪童”ぶりを噂されながら、ソウル・オリンピックを足場にヨーロッパへ出向き、高いレベルでの戦いの中で地位を築いた。そんなロマーリオの成長を次回から眺めていくことにしたい。


(週刊サッカーマガジン 2008年5月20日号)

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