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ロマーリオ(2)バスコ・ダ・ガマから欧州へ。ブラジル代表を王座に導き、富と栄誉を手にした

 フットサル日本代表のアジア選手権(5月11〜18日、タイで開催)出場壮行試合、対ウクライナ戦(5月1日神戸、4日東京)は1勝1敗。神戸の試合(●0−3)を生で見た。負けはしたが、面白い試合だった。
 日本代表は2週間の強化合宿で体力、走力重視のトレーニングをした後で、前半は体の動きが鈍く、2点を奪われ、後半には調子が上がって攻め合ったものの、さらに1点を取られてしまった。第2戦は2−1で勝った。調子が上がり、体力的にも負けなかったというから、大会に向かってチームに勢いがついたといえるだろう。
 点差の開いた神戸でも後半はとてもスリルがあったから、東京での5000人近い観衆はもっと楽しかっただろう。
 神戸で面白かったのは、ウクライナのボールの展開――サイドへボールを散らしたとき、ボールを受けた者がまず第一に縦に出ようとしたところに、ピッチは小さくてもやはりサッカーという感じがしたことだった。
 ともあれ、日本代表のアジア選手権での頑張りを祈ることに――。


 さて、ロマーリオの話――。昨年5月に42歳にして“天下”のブラジルの名門バスコ・ダ・ガマの現役としてチャンピオンシップの公式戦で“自称”1000ゴールを達成した彼の長いサッカー人生を、まず、駆け足で眺めてみよう。

 1966年1月29日に、ブラジルのリオデジャネイロに生まれたロマーリオは、貧しい環境の中で育った。
 交差点で信号待ちの車のフロントガラスを拭いて稼ぎにしていたという話が伝わっているが、その息子のフットボールの才能を見た父親が、オラーリアACというクラブに入れたところから、前途が開ける。11歳で入ったオラーリアでのプレーに目をつけたビッグクラブ、バスコ・ダ・ガマが、彼を1980年にジュニアチームに入れる。
 5年後、19歳でトップチームの21試合に出場して11得点。続く86年には、リオデジャネイロ州選手権で20ゴールを挙げて得点王(この年、40試合30得点)となり、チームの優勝に貢献した。20歳の出来事だった。この年は彼よりも6歳上のアルゼンチンのマラドーナが、自らのスーパープレーでアルゼンチン代表をワールドカップ優勝に導いている。

 20歳でオリンピック代表として、ソウル・オリンピック(1988年9月)に出場。1次リーグの対ナイジェリア(○4−0)で2得点。対オーストラリア(○3−0)では全得点を叩き込み、対ユーゴスラビア(○2−1)準々決勝の対アルゼンチン(○1−0)では自らの得点はなかったが、準決勝の対西ドイツ(△1−1、PK戦勝ち)で1ゴール。決勝の対ソ連(●1−2)でも、チーム唯一の得点を決め、ブラジルの準優勝の大きな力となり、合計7ゴールで大会の得点王に輝いている。

 このソウル・オリンピックでの高評価を足場に、彼は自らの給料値上げを要求し、バスコ・ダ・ガマは最も高額な移籍金を提示してきた、オランダのPSVへ彼を送り出すこととなった。
 この88年に、PSVは欧州チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)の覇者となり、さらなるチーム強化のためにロマーリオを手中にする。
 88年12月11日、東京・国立競技場で行なわれた第9回トヨタカップで、欧州代表のPSVのFWとして来日したロマーリオを、私は初めて生で見た。相手はウルグアイのナシオナル・モンテビデオ。2−2の延長、同点の末にPK戦6−7でPSVは敗れたのだが、0−1とリードされたPSVが、ロマーリオのヘディングで同点とするのを見た。タッチラインからの見方のロングスローを相手DFがヘディングしたボールの落下点で決めたのだが、もう一人の長身FWキーフトではなく、169センチのロマーリオだった不思議さを感じ、同時にフース・ヒディンク(当時のPSV監督)が、ブラジルまで足を運んでロマーリオのプレーを確かめた上で獲得に踏み切った話を思い出したものだ。

 次の年、コパ・アメリカ(南米選手権)ブラジル大会(7月1〜16日)で、ロマーリオは2歳年長のベベットと2トップを組み、優勝を勝ち取る。
 しかし、90年のワールドカップ・イタリア大会では、代表には入ったが出場は1試合だけ。ズケズケと意見をいう性格が原因という噂もあったが、彼はPSVで3度のリーグ優勝と、3度の得点王の実績で、93年には超ビッグクラブのバルセロナ(スペイン)へ。
 その新しいクラブで30ゴール(30試合)を挙げて、得点王と優勝を手にし、94年米国ワールドカップでは、ブラジル代表として今度は母国を24年ぶりに世界王座に導く。  貧しい家のサッカー小僧は、25歳という若さで、富とともに最高の名誉を手にしたのだった。


(週刊サッカーマガジン 2008年5月27日号)

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