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【番外編】日本のストライカー 日本は、わずかな競技人口の時代にも良いストライカーを生み出してきた


 熊本日日新聞の記者さんが、ネルソン吉村大志郎(故人)の話を聞きたいとやってきた。ブラジルへ日本から初めて移住者が渡航してから100年、日本・ブラジル修好100周年を記念して、さまざまな話題がメディアに取り上げられているが、熊本日日では同県出身者の日系2世で、かつてヤンマーと日本代表で活躍した吉村大志郎(ネルソン)の話を書くのだという。
 H記者といろいろ話をしていいるうちに、日本サッカー全般から、ストライカーにまで及んだときに、彼がこんな言葉を口にした。
「『日本人は、社会環境や国民性からストライカーは育ちにくい』という人が多いようですが…」
 サッカーは素人ですが、という社会部の記者にも、そのような見方が伝わっているのか、「やっぱりな〜」と思った。Hさんには私の考えを説明した。

 日本サッカーの長い歴史の中で、私はアマチュア時代の日本代表に3人の優れたストライカーを生で見ている。
 1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した日本代表の釜本邦茂は、6試合で7得点を挙げ大会の得点王となった。アマチュアといってもその4年前の東京大会の得点王だったフェレンツ・ベネ(ハンガリー)は、2年後の68年イングランド・ワールドカップ(W杯)にハンガリー代表として出場して、対ブラジル戦の勝利に貢献している。72年ミュンヘン・オリンピック優勝のポーランドは74年西ドイツ・W杯で、西ドイツ、オランダに次いで3位だった。オリンピックでベスト4に入るのは大変なこと。その中でも得点王となった彼は、海外のプロでプレーするチャンスはなかったが、30歳になっても海外から来た外国のスターたちからも高い評価を受けた選手だった。
 彼は身長1m82(公称は1m79)で、同世代の西ドイツ代表の皇帝フランツ・ベッケンバウアーが1m81、GKのゼップ・マイヤーが1m83だったから、彼らの間に入っても同じ大きさだった(今の時代なら1m88くらいだろう)。

 1968年の釜本の成功より、32年前のベルリン・オリンピック(1936年)に日本代表が初参加し、強豪スウェーデンに逆転勝ちしたときには、川本泰三(1914−85年)がいた。ベルリン当時は22歳、早大の学生。ドリブルがうまく、センタフォワードだが、当時のWM型FWの中央の先端というより、自由に動いて、DFからのボールを受けてキープし、左サイドへボールを散らして再びゴール前へ詰めて、ボールを受けてシュートするのが早大でも、日本代表でも得点経路だった。昭和6年(1931年)に早稲田高等学院(早大の予科)に入学し、同12年(1937年)に卒業するまでの6年間、関東大学リーグに出場して1年目からどんどんゴールを奪った。
 その合計数字ははっきりしていないが、のちの1963年ー66年の4年間に関東大学リーグで得点王であり続けた釜本邦茂に匹敵するものではないかと、堀江忠男(故人)早大ア式蹴球部長は言っていた。
 ベルリンで0−2から川本のゴールが決まって1−2としたとき、堀江は(自分たちの得意のコースで得点が生まれたから)「ひょっとすると」と希望を持ったと記している。シベリア抑留から戻った川本が、1954年に代表で試合をして、のちに代表のコーチとなった。

 川本が早大を卒業したあとの4年間、関東大学リーグを連覇し、日本選手権(現・天皇杯)にも勝って、日本のトップチームとなったのが慶大。その中心がチームのセンターフォワード二宮洋一(にのみや・ひろかず、1917−2000年)だった。大きくはないが、上手で速く、強いストライカーだった。1940年に予定されていた東京オリンピックが戦時中のため返上されたこともあり、絶頂期に国際舞台に恵まれなかったけれど、その得点力とゲームメイクの力は、3歳年長の川本と常に比較されていた。
 二宮は釜本に直接関わることはなかったが、関西協会の理事長、会長にもなった川本は、釜本の早大への進学、ヤンマーへの入社、西ドイツへの単身留学など、その成長過程にも関わり、ときおりヒントを出して釜本自身で工夫し、レベルアップするのを側面から助けていた。

 川本も、二宮も自我が強く、当時の日本人から見れば異質であったし、釜本邦茂という並外れた身体的資質を持つ選手は、その能力を生かすための強い心を持っていた。
 この3人が出現した30余年間の日本のサッカー人口と、今の人口と比べると私はこの15年間に毎年、釜本邦茂クラスが2人ずつ現れても不思議ではないと考えている。
 そうでない理由の一つは、何でも国民性や環境のせいにしてしまう“誰か”にあるのではないだろうか――。


(週刊サッカーマガジン 2008年7月15日号)

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