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ユルゲン・クリンスマン(3)EURO88での台頭に続いてソウル五輪での活躍


 EURO(欧州選手権)88準決勝、西ドイツ(1組1位)対オランダ(2組2位)は6月21日にハンブルクで、ソ連(2組1位)対イタリア(1組2位)は22日、シュツットガルトで行なわれた。
 オランダサッカーにとって隣の“大国”ドイツは越え難い大きな壁だった。
 1910年から始まった両国代表チームの対戦は、1937年まではオランダの5勝6分け4敗とやや優勢だったが、第2次大戦後は1956年に1勝(戦後の初試合)しただけで、57年から86年までの10試合で3引き分け7敗。あの1974年のワールドカップ・西ドイツ大会で、革命的なトータルフットボールを掲げたリヌス・ミケルス監督とヨハン・クライフ主将の代表チームもミュンヘンでの決勝で、フランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーの西ドイツ代表に1−2で敗れてしまった。
 エルンスト・ハッペル監督の、78年アルゼンチン・ワールドカップ準優勝チームも、コルドバでの2次リーグで西ドイツと引き分け(2−2)。EURO80(イタリア)でも1次リーグ第2戦(ナポリ)でベルント・シュスターやクラウス・アロフスたちの若い西ドイツに2−3で屈していた。

 前半は0−0。意欲満々のオランダはルート・フリットの動きが冴えて、マーク役のウリ・ボロウカを楽々とかわして攻撃をつくった。西ドイツもまた気力充実。45分間はゴールを許さなかった。その堅守は54分になって報われる。
 ユルゲン・クリンスマンが右からペナルティエリア内へドリブルで入っていって、一人かわしたところ、フランク・ライカールトがぶつかり、クリンスマンはばったり倒れた。PK。オランダ側は主審に抗議したが、クリンスマンの鮮やかなターンを止めようとライカールトがぶつかったように見えた――と記されている。ローター・マテウスが右ポストぎりぎりに決めて1−0。
 それから20分近く経った73分に、オランダ側がPKのチャンス。ロナルド・クーマンからのパスを追ってマルコ・ファンバステンがペナルティエリア内でユルゲン・コーラーと競り合って倒れたもの。14年前も互いにPKで1点ずつ取った。今度はミュンヘンと違って、西ドイツが先に決め、オランダが同点にした。
 決勝ゴールは88分。ファンバステンが右へ流れながら右足で決めた。オランダの同点ゴールとなったPKをベッケンバウアー監督は、「レフェリーのミス」と言い、これに同調する意見もあったが、技術水準はオランダの方が上という意見が一般的だった。その中でクリンスマンとマテウスの2人は、オランダのトップクラスに引けを取らないと言われた。
 激闘の末、西ドイツへの節城九を果たしたオランダは、決勝でソ連を破って欧州初制覇。ファンバステンは決勝でビューティフルゴールを決めて、スターストライカーとして世界に名を知られた。

 クリンスマンの評価は、いささかこの陰に隠れた感はあったが、ベッケンバウアーをはじめとする西ドイツの関係者の信頼は厚く、1990年のイタリア・ワールドカップも、彼とマテウスを中心にチームをつくり上げることにしていた。そして、その予選の組合せで西ドイツは、オランダ、フィンランド、ウェールズと同じ欧州第4組に入ることになった。ライバルとの対決は、88年10月19日(ホーム)と89年4月24日(アウェー)だった。

 ただし、クリンスマンには、その前に9月17日から始まる「88年ソウル・オリンピック」が待っていた。
 オリンピックがアマチュアだけの大会からプロフェッショナル導入へと移っていく過程にあったこの大会では、FIFA(国際サッカー連盟)は参加資格をU−23に確定していなかった。プロでもワールドカップに出場していない選手は、オリンピックに出場できると決めていた。
 欧州のスターであっても、ワールドカップ未経験のクリンスマンは、西ドイツ・オリンピックチームの重要なストライカーだった。大会の1次リーグA組で西ドイツは、中国(3−0)チュニジア(4−0)を破り、スウェーデンには1−2で敗れての2位で準々決勝に進み、9月25日にザンビアと対戦してクリンスマンの3得点を含む4−0で快勝。27日のソウルでの準決勝で、ロマーリオのいるブラジルと戦って1−1。同点の後、PK戦(2−3)で敗れた。2人目のキッカーだったクリンスマンは、ポストに当てて失敗している。しかし、3日後の3位決定戦(ソウル)イタリア戦では先制ゴールを挙げて3−0の勝利への道を開き、銅メダルを獲得した。

 東京オリンピックの年に生まれた彼が、日本の隣国で銅メダルを獲得した。そして、その20年後、つまり日本の銅メダルから40年後にバイエルンの監督としてこの夏、日本にやってくる。彼と日本サッカーは目に見えないところでつながっているような感じもする。
 そんな不思議な縁ではなく、強烈なライバルであるオランダ代表との壮絶な戦いとなる90年ワールドカップについては、次号から眺めていくことに――。


(週刊サッカーマガジン 2008年8月5日号)

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