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ユルゲン・クリンスマン(4)若返った西ドイツでイタリアW杯行き決定、自身も新天地インテルへ
EURO(欧州選手権)88のベスト4、準決勝でオランダに敗れた西ドイツ代表。その新しいFWユルゲン・クリンスマンは、同年秋のソウル・オリンピックで3位となり、銅メダルを獲得した。同じ年代のマルコ・ファンバステン(オランダ)が、EUROの決勝のファインゴールとミラン(イタリア)での働きによって高い評価を受け、世界の人気選手になったのに比べると、いささか地味ではあったが、88年はこの金髪のスラリとしたハンサムなストライカーにとって、実力アップと自らの地位を固めた年だった。
西ドイツ代表とクリンスマンには、この年、もう一つの課題があった。
90年ワールドカップ・イタリア大会の欧州予選だ。
第4組に入った西ドイツは、そこでなんとオランダと対戦する。4チームの他の2ヶ国は、ウェールズとフィンランドで、力は落ちるが勝ちやすい相手ではない。したがって、最大の強敵との対決でも負けないことが優先された。
予選は8月31日の対フィンランド戦(アウェー)からスタート。オランダとは、10月19日にミュンヘンでのホームと、89年4月26日、ロッテルダムでのアウェーが組み込まれていた。
86年のメキシコ大会決勝でディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチンに敗れたフランツ・ベッケンバウアーにとって、90年の本大会に進むためにも、またEURO88のリベンジのためにもオランダ戦は重要なポイントだった。
自国開催のEUROで敗れた余波は、このシーズンのブンデスリーガにおける入場収入の落ち込みとなって表れていた。“皇帝”の采配への批判もあった。
そうした中でベッケンバウアーは、大胆にも“欧州”で若返った代表に、さらに若い力を導入した。
一番目立ったのはゴールキーパー。EUROで控えだった21歳のボド・イルクナー(ケルン)をレギュラーにし、対フィンランド戦(アウェー)から起用した。DFにトーマス・ベルトルト(ベローナ=イタリア)シュテファン・ロイター(バイエルン・ミュンヘン)MFのトーマス・ヘスラー(ケルン)などの、21−23歳の選手が入ってきた。ベルトルトは86年メキシコ大会のメンバーだったが、セリエAに移っていた。その頃のDFB(ドイツ協会)の中には、外国クラブ籍の選手の代表入りに反対する古い考えがまだ残っていた。そうした中で、“皇帝”は「どこのクラブかが問題なのではなく、その選手が代表にフィットしているかが問題なのだ」と言い、インテル(イタリア)へ移ったローター・マテウスを代表チームのキャプテンに指名した。
“皇帝”が残念がったのは、クリンスマンがソウル・オリンピックのために、代表に加わるのがミュンヘンでの試合の直前だったということ――。ミュンヘン・オリンピックスタジアムに集まった7万3000人は、0−0の引き分けを見ることになった。
オランダのロナルド・クーマンは、試合後に「ドイツは6月よりも進歩している。若いヘスラーや、オラフ・トーンにはてこずった」と言ったというが…。オランダ側ではクーマン、フランク・ライカールト、ファンバステンの3人は出場したが、“四天王”の一人、ルート・フリットは欠場していた。
ロッテルダムでも引き分け(1−1)に終わったが、フリットを欠くオランダに対して、西ドイツがカールハインツ・リードレのゴールで先制し、オランダは終了間際にファンバステンのゴールでようやく同点にした。
クリンスマンは先発せずに、ルディ・フェラーとの交代で出場した。この予選シリーズ、クリンスマンは89年10月4日の対フィンランド戦(ホーム、6−0)で1ゴールを記録しているだけだったが、ベッケンバウアーの90年型のニューモデルは、6戦3勝3分け13得点3失点で、オランダ(4勝2分け8得点2失点)とともにイタリアへの出場権を得た。
88−89シーズンの締めくくりにクリンスマンはUEFAカップの決勝で、マラドーナのいるナポリ(イタリア)と戦う。シュツットガルトはナポリでの1戦を1−2で敗れ、ホームでの第2戦は0−1からクリンスマンのゴールで同点とした後、3−3の引き分け。合計スコア4−5でナポリの優勝となった。
同じ頃、ファンバステンやフリットのミランは、チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)で優勝し、さらに彼らの名声を高めたが、クリンスマンもまた、89−90シーズンからインテルへ移り、セリエAでオランダ勢やマラドーナと競うことになる。それが90年大会につながるかどうか――。
(週刊サッカーマガジン 2008年8月12日号)