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79年前に初のアジア王者となった日本代表ゴールキーパー 斎藤才三(上)

連載、満10年を迎えて

 日本サッカーの長い歴史の中で、その時々に業績を挙げ、後にも影響を及ぼした人を紹介する『このくに と サッカー』は2000年4月号から始まり、前号までで満10歳、108の回数を重ねました。
 日本サッカー協会(JFA)が日本サッカーミュージアムを建設し、「サッカー殿堂」に功労顕著な先輩を表彰掲載する制度を設け、また各都道府県協会や大学、高校、あるいは企業クラブの中でそれぞれの協会史、運動部史の刊行が相次いでいること――など、近ごろの歴史発掘の高まりを見れば、月刊グランの編集企画の先進性をあらためて感じることになります。
 誌面刷新に伴い、コンパクトにしてより読みやすく、時代を越えてサッカー仲間とのつきあいを楽しんでいただけるようにと考えています。よろしくお願いします。


楢崎より79年前の代表GK

 3月28日のバーレーン戦は、中村俊輔のFKによる1−0の勝利だった。FKは、玉田圭司がドリブルで右サイドから中央に入ってきたのを止めようとした相手の反則からだった。この試合では守りを重視する相手からゴールを奪えるか――が第1のテーマ。相手が得意とするカウンターをいかに防ぐか――が第2のテーマだった。前者は玉田によって、日本代表の最大の武器の一つ、FKが生かされた。また後者は、久しぶりに日本代表に復帰したGK楢崎正剛がすっかり元気な姿になっていて、自らの正確な捕球やポジショニング、そしてDFへの指示で守りに安定を与えて、1−0ではあったが危なげない勝利につなげた。
 彼の落ち着いた守りで、GKの存在の大きさを再認識した人も少なくなかったはずだが、今回の連載の主は79年前、1930年(昭和5年)の極東大会で活躍した日本代表のGK斎藤才三さん(1908〜2004年)。日本代表が初めて選抜チームをつくった時に選出され、初めてアジアの1位となったチームの守りの要である。
 30年といえば、今、世間を襲っているアメリカ発の大不況――。“100年に一度か二度”といわれる、その先例のウォール街の株大暴落(1929年)の余波を受けていたころ。世界不況が始まり、日本も生糸の大苦境に始まって、経済不況に入っていたが、スポーツ界は28年のアムステルダム・オリンピックで初めて、陸上三段跳びと水泳で金メダルを獲得して、大いに盛り上がっていた。


FW東大、GK関学

 1930年5月、東京の明治神宮競技場で第9回極東大会が行なわれた。日本、フィリピン、中華民国の3ヶ国による総合競技大会(始めは極東オリンピックと称していた)でのサッカーの優勝を狙うために、JFAはこれまで国内予選の優勝チームを主力に代表チームを出場させていたのを、この時初めて選抜チームをつくることにして、関東、関西の大学リーグから候補19人を選んで、合宿練習を行なった。集まったのは東大12、早大3、関学(関西学院大学)2、慶応、京大各1。関東大学リーグで5年連続優勝を続けていた東大が主力となったこと、特にFWは個人力の高い中華民国に対抗するためにパスワークを重視したため、東大勢で占めたのは当然だったが。DFの最後の砦となるGKは、29年の第1回東西大学王座決定戦(東大3−2関学)で、巧技を連発した斎藤才三が注目され、選考委員会でも推奨されたという。
 30年5月24〜31日まで開催された第9回極東大会のサッカーは25日に日本対フィリピン(7−2)27日に中華民国対フィリピン(5−0)29日に日本対中華民国(3−3)が行なわれ、日本と中華民国が1勝1分けで両チーム1位となった。勝敗が同率のときの優勝決定の規定がなかったのだが、日本にとっては17年(大正6年)の初参加以来、一度も勝てなかった中華民国にようやく追いついたことで、自分たちが工夫し、努力した日本サッカーに自信を持つことができた重要な試合でもあった。
 斎藤才三さん(仲間はサンミと呼んでいた)は、後に英国へ留学して、サッカーのリポートを書き、毎日新聞社でサッカー記者となった。後輩たちを啓発することになる初代日本(選抜)代表GKのサッカーキャリアを次回で眺めてみたい。


(月刊グラン2009年5月号 No.182)

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