賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)

田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)

「これ、主人ですのよ」――

 日本サッカーミュージアムの創設5周年記念レセプション(2008年12月20日)の席上、川淵三郎ミュージアム館長や犬飼基昭JFA会長たちと談笑する老婦人のところへ歩み寄ると、1枚のフォトがあった。
「ああ、斎藤才三さん(故人)。1930年(昭和5年)日本代表GKですね。若いころからハンサムで通っていたから、すぐ分かりますよ」と私が思わず口をはさむとご婦人は言った。「そうなの。イケメンでしたからね。これは初めてラジオ放送に出たときのものですよ」と斎藤芳子さん――。ご主人と8歳違いのお元気な夫人にお目にかかれたのが、この日の会合出席の大きな喜びの一つだった。

 斎藤才三さん――当時、日本一の折り紙つきのGKのプレーを残念ながら私は見ていないが、関西学院の仲間、ゴットンこと後藤靭雄さん(故人)や田辺五兵衛さんからその名は度々聞かされた。「ハーフラインから向こうにボールがあるときは、いつも体操などで体を動かしていた。ボールがハーフラインを越えてこちら側に来ると、ピタリと動きを止めて、ボールと相手の動きを注意していた」とは田辺さんの言。ベルギー人との混血であった後藤さんは並外れた長身のディフェンダーで、斎藤さんはゴットンほどではなかったが、当時としては上背もあり、スラリとした体つきだった。


関学の第1期黄金期

 大阪の裕福な貿易商の家に生まれた斎藤才三少年は、私立の名門、帝塚山学院小学校(芳子夫人は「岡ちゃん」(=岡田武史日本代表監督)と同じですよ」と言った)で学び、英国人宣教師がつくった私立桃山中学(現・桃山学院高校)に進んで、ローリングス校長のバックアップでつくられていた蹴球部でサッカーに打ち込むことになった。1学年上の田辺五兵衛さんたちとずいぶん練習もし、議論もしたらしい。

 同じ大阪の伝統校、明星商業(現・明星高校)のような先輩がいないので、手探り状態で自ら考え、工夫しての練習だった。はじめのうちは明星との試合に相手はすべてサブのメンバーで、それにも勝てなかったのが次第に力をつけた。
 1925年(大正14年)の第8回日本フートボール大会にはかなり自信もあったが、田辺キャプテンのチームは2回戦で神戸一中(優勝)に負けた。26年の第9回大会には、大阪・和歌山地区予選に勝って全国大会に出場した。2回戦で広島一中(準優勝)に敗れたが、大阪の代表になったことは誇りだった――と斎藤さんは後に記している。自分でもGKというポジションには、この頃から自信を持っていたようだ。

 斎藤さんが中学4年生のときには、日本フートボール大会は中学校(旧制)と師範学校だけが参加することになり、次の年に各地域予選制を採用した全国大会となって現在の全国高校サッカー選手権大会の前身としての基礎が固まった。21年にJFAが創設され、全国優勝競技会(現・天皇杯)の開設をはじめ、関東、関西の大学リーグ、あるいは旧制高校の全国大会(インターハイ)が始まり、いわば日本サッカーの“かたち”が急速に整備されゆく時代でもあった。
“かたち”が整い、各年齢層の学校が試合目標を持つことで、技術、戦術のレベルアップが始まる。大正末期のビルマ(現・ミャンマー)人、チョウ・ディンの全国巡回指導がそれを押し上げた。そうした学校チームの技術、戦術の頂点に立つようになった関東大学リーグでは東大、関西では関学がそれぞれ抜きん出たチームをつくる。斎藤さんはそういう流れの中で育っていった。

 26年3月、桃山中学を卒業した斎藤さんは4月に関学に入学し、1年生からレギュラーGKになった。関学の高等部(当時4年制)にア式蹴球部が誕生したのは18年。24年1月、関西大、神戸高商(現・神戸大)と関学の3校でスタートした関西大学リーグのファウンディング・メンバーだった。第1、2回の3校リーグは関大に敗れて2位。第3回の5校リーグも優勝できなかったが、7校による第4回リーグに初優勝した。

“ゴットン”(後藤)、ダンチと呼ばれた檀野義雄と斎藤さんの3人の1年生が、それぞれHB、FW、GKで重要な働きをして上級生を助け、6勝での優勝だった。この年11月の第3回早関定期戦は早稲田との間に壮絶な3連戦を演じ、西に関学あり――を東京のサッカー人に示した。関学の第1期黄金時代の始まりだった。


(月刊グラン2009年6月号 No.183)

↑ このページの先頭に戻る