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ユルゲン・クリンスマン(7)90年W杯、対オランダ戦で会心のボレーシュート


 8月12日、女子代表の対ノルウェー大勝で、北京オリンピックでの日本代表についてまわっていた“もやもや”が少し晴れた。
 5−1というスコアはいささか驚いたが、何より“なでしこ”の全員に勝とうという気迫があり、ゴールを奪う意思が見られたのが嬉しかった。
 澤穂希(さわ・ほまれ)を中心とする彼女たちには、女子サッカーを盛んにするためにも、オリンピックで勝ちたい――というかつての男子の先輩たちが抱いていたのと同様の志があり、それが背水の陣での実力発揮となったのだろう。
 面白かったのは、会場がこれまでの泰皇島ではなく、上海だったこと。ピッチの芝の状態が前者のデコボコ、フワフワではなく、比較的平坦で試合直前の降雨のために適当に濡れて、ボールの走りがよくて、なでしこ得意のランプレーがうまくいった。

 日本サッカー史から見れば、上海は1927年(昭和2年)8月29日の第8回極東大会で、日本代表(鈴木重義監督)がフィリピンを2−1で破って国際舞台での初勝利を記録したところでもある。この1勝で、日本サッカーは体育協会の中でも、少しは顔も利くようになって、36年のあのベルリン・オリンピックの逆転勝利につなげたのだった。
“北京”ということで、かつてない注目を集めている中、“なでしこ”が今度の快勝を足場に、自らの頑張りで女子の発展の道を切り開いて欲しい。


 さて、クリンスマンの話に――。
 90年イタリア・ワールドカップの16強。ノックアウトシステムの1回戦で、西ドイツとオランダが対決。前半戦途中で西ドイツのルディ・フェラーと、オランダのフランク・ライカールトの2人が退場処分。10人ずつの攻め合いとなった。前半は0−0。オランダ側にややチャンスが多い感じだったが、まずは互角。
 この試合の私のメモは、A4版ノートで9ページにわたっているが、それを読み返すと前半終了前に「西ドイツはクリンスマンがドリブルし、2人に囲まれて右タッチラインの外へ出る――(こういうときに西ドイツは、人数が上がってこない)」とある。
 人数をかけて攻撃に出たときのオランダのカウンターアタックを警戒していたのだろう。その西ドイツの少数攻撃が、50分に先制点を生む。
 この攻めの前にローター・マテウスの中盤でのボール奪取とドリブル。右外へのパスを受けたクリンスマンからクロスが送られ、それをマテウスがヘディングするチャンスもあった。4人のDFに対して2人で攻めてのシュートだった。

 得点を生む攻めは、まず、アンドレアス・ブレーメが、左サイドの前へ飛び出したギド・ブッフバルトへのパスから。ブッフバルトはドリブルし、一度止まって縦に相手のジョン・ファントシップを抜いて左足でクロス。クリンスマンがニアサイドへ寄って、左足を払うようにしてボールに当てた。
 ブッフバルトがクロスを送る前にペナルティエリア内にはオランダの選手が2人。西ドイツはクリンスマンだけ。彼は中央から少し外に開くようにしておいて、一気にクロスに合わせて走り、マークする相手を振り切ってボレーで合わせたのだった。
 のちに浦和の監督となったブッフバルトにとっても会心のプレーの一つだろう。
 パスで攻め込むときに、日本ではいつも相手より人数を多くしなければ、と思いがちだが、必ずしもそうでないことを、このゴールは示している。

 0−1となってオランダにも“火”がつく。ファントシップの右からのノーマーク・シュートは左ポストをわずかに外れ、マルコ・ファンバステンのシュートはDFに当たって勢いが弱まり、GKボド・イルクナーが取る。

 しかし、西ドイツの選手たちの動きは衰えを知らず。10人ずつのやや広いスペースは、西ドイツの走力が目立つ場となる。普通はファウルの少ないファンバステンが、中盤でマテウスを倒したのも、動きの遅れから。イエローカードをもらってしまう。
 その西ドイツの中でもクリンスマンの大きなストライドの疾走が特に目立った。78分に彼がカールハインツ・リードレと交代したとき、西ドイツサポーターはスタンディングオベーションで彼を称えた。その6分後、ブレーメの右足のカーブシュートが決まって勝負あり。
 88分にファンバステンが倒されたPKをロナルド・クーマンが決めたが、ときすでに遅しの感があった。
 終了の笛とともにクリンスマンはベンチから出てきて、ルート・フリットとユニフォームを交換した。彼にとっても生涯最良の試合といえた。


(週刊サッカーマガジン 2008年9月2日号)

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