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ユルゲン・クリンスマン(8)インテルからモナコへ。新天地を求めつつ94年W杯を目指す

 長居でのJ2の試合に横浜FCが登場したとき、東京からのフリーカメラマンが私にこう言った。「カズさん(三浦知良)がこのところ練習で調子良いから、ゴールのシーンを撮れるかもしれないからと思ってやってきたのです」と――。
「ほう、それはいいね。何といってもカズは釜本邦茂以来、日本人プレーヤーで最も美しい形でシュートしてきた選手だからね」と私もつい、口に出してしまった。
 後半の短時間の出場で、そうしたシーンはなかったが、プロフェッショナルのフォトグラファーに、そう思わせるところが、やはりカズだなあと、あらためてピッチ上の彼を眺めたものだ。


 さて、ユルゲン・クリンスマン。今シーズンからバイエルン・ミュンヘンの監督となった彼もまた、息の長いストライカーだった。
 前々週までで(先週は番外編だった)クリンスマンの成長期から、1990年ワールドカップ(W杯)までをたどり、ドイツ代表がイタリアで世界のタイトルを取るのを見てきた。
 このときのドイツの勝利の要因の一つに、クリンスマン、ローター・マテウス、アンドレアス・ブレーメのインテル勢やルディ・フェラー、トーマス・ベルトルトのローマの2人、セリエAで働く5人が腕を上げたことが大きく、ドイツの戦いの場がミラノで、3人にとってはホームの雰囲気であったことも幸いした。
 実は、クリンスマンが89年にシュツットガルトからインテルへ移るときに、多くの外国人選手のように、彼もセリエAで失敗するのでは――との懸念もあった。
 しかし、彼はイタリアでも自分のペースを守った。メディアと話すのを断り、私生活を一切公開しなかった。ミラノの街へ出かけるときも夜になってからで、ゴルフキャップを目深にかぶって人に知られないようにした。それでいて、イタリア語の勉強には力を入れ、イタリアン・フットボールを学ぶのも熱心だった。チームメイトともうまく付き合った。
 監督のジョバンニ・トラパットーニは「クリンスマンはピッチを離れると、明るくてインテリジェンスがあり、ハンサム。ピッチの上ではフットボーラーで、体操の選手のように身のこなしが軽快。常に自然のままに振る舞える真のアスリートだ」と誉めている。

 イタリア90(W杯)での優勝の次のドイツ代表の仕事は92年欧州選手権だった。この大会は、ユーゴスラビアが戦争の当事国となって、参加を取り消され、同じ予選でグループ2位のデンマークが交代で出場して優勝してしまう――という、ハプニングだった。オランダが90年の不調から回復し、マルコ・ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトが元気で揃い、若いデニス・ベルカンプも加わって強力なチームをつくっていた。
 スウェーデンでのこの大会で、クリンスマンとドイツ代表は1次リーグでオランダに1−3の完敗はあったが、1勝1分け1敗で抜け、最終的には決勝に勝ち上がった。相手はオランダと予想されたのだが、そのオランダが準決勝でデンマークに屈し、決勝でドイツもまたブライアン・ラウドルップたちの勢いを止められずに敗れた。クリンスマンは4試合出場して2得点に終わった。

 大会直前に彼はインテルからレアル・マドリードへ移るという噂だったが、結局92−93シーズンはフランスリーグのモナコでプレーすることになる。ここでは日本でも有名なアーセン・ベンゲルが監督だった。
 クリンスマンは、ここでユーリ・ジョルカエフやアフリカ人選手たちとチームを組み、新しい経験を積む。
 そして、ドイツ代表は94年W杯USA大会に、前回チャンピオンとして出場する。
 広大なアメリカ合衆国でのW杯開催は、FIFA(国際サッカー連盟)にも、米国のサッカー人にとっても、大きな賭けであった。
 収容力の大きなアメリカン・フットボールのスタジアムを使っての大会は、かつてない入場者数を記録した。
 ただし、米国の3大ネットワークをはじめとする大きなテレビ局の放映は少なく、またディエゴ・マラドーナの薬物事件といった暗い話題もあった。
 そうした中で、ドイツ代表は、開幕戦を6月17日、シカゴで戦い、ボリビアを相手に、いささか退屈な展開ながら61分のクリンスマンのゴールが決勝点となって、まずグループCで勝点3を挙げた。次のスペイン(21日、シカゴ)韓国(27日、ダラス)その試合でもクリンスマンは得点を重ねて存在感を示すことになる。


(週刊サッカーマガジン 2008年9月16日号)

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