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ユルゲン・クリンスマン(12)3度目のW杯、フランス大会で3得点。クラブと代表の実績を残し第2の人生へ

 90年にワールドカップ(W杯)優勝、96年に欧州選手権優勝と、ドイツ代表チームとともに世界とヨーロッパのタイトルを手にしたユルゲン・クリンスマンは、98年のフランスW杯で再び世界一に挑戦することになった。
 代表キャプテンとしてEURO96のカップをエリザベス女王から受ける栄誉を担ったクリンスマンは、当時バイエルン・ミュンヘンに在籍していたが、61試合、31ゴールと、UEFAカップ優勝の実績を残して、97年にはセリエAのサンプドリアに移る。ここではケガのため6ヶ月休んだが、回復に向かうとイングランドのトットナム・ホットスパーに戻る。12月21日からピッチに立って、23日の対ウェスト・ハム戦(1−0)では決勝ゴールを挙げてサポーターを喜ばせ、シーズン後半の15試合に出場して9ゴールを決めていた。
 トップクラブを短期(1〜2シーズン)で渡り歩く「ワンダリングスター」の面目躍如というところか――。
 ただし、ベルティ・フォクツが手がけてきたドイツ代表は若返りが遅れていた。96年の功労者の一人、マティアス・ザマーが故障から回復しなかったのは大きな痛手だった。FWのパートナーは96年、ウェンブリーで優勝ゴールを決めたオリバー・ビアホフがいた。長身で、彼より4歳若いビアホフは、イタリアで名を上げて、今や重要な戦力だが、彼もすでに30歳だった。

 グループリーグF組は、ドイツとユーゴスラビアとイラン、アメリカ合衆国(米国)の4ヶ国で、ドイツは6月15日に米国とパリのパルク・デ・プランスで対戦して2−1で勝った。
 1点目はオラフ・トーンのCKをクリンスマンがヘッドで落としたところをアンドレアス・メラーが決めた。8分だった。2点目はクリンスマン、64分のこのゴールはビアホフからのクロスを胸で止めてシュートした。
 ヘディングの上手なクリンスマンは、浮き球の処理(トラップ)やボレー・シュートも落ち着きがある。

 フランス北部の町、ランスでの6月21日の第2戦はユーゴスラビア。ドラガン・ストイコビッチ(現・名古屋監督)をはじめ、錚々たるテクニシャンを揃え、この日はスタートから動きも鋭くてドイツを苦しめ、1−0でリード、54分にもストイコビッチのゴールで2−0とした。
 W杯で、ドイツにはいつも分が悪いユーゴだが、今度は違うぞ――とみていると、ドイツ側の猛反撃がはじまる。
 後半はじめに交代出場していた大ベテランのローター・マテウスの積極的な姿勢がチームの勢いを呼び、一人ひとりの動きが強く、速くなって、ユーゴを圧迫する。ミカエル・タルナトのFKからオウンゴールを生んで1点差。さらに左CKからビアホフのヘッドで同点とした。仲間のヘディングを助けるために、一つ早いタイミングでジャンプして、相手DFの注意をひきつけたクリンスマンの“陽動”が効いた。
 この後半の大反撃でクリンスマンが走り、攻め、守る姿は感動的でもあった。相手の強いFKを胸で止めてストレッチャーで運び出される彼を見て、90年の対オランダ戦を思い出したものだ。

 第3戦のイラン戦(2−0)の勝利でドイツはF組1位となる。この試合でもビアホフとクリンスマンが各1ゴール。クリンスマンはビアホフのシュートのリバウンドを押し込んでのゴールだった。
 ノックアウト・ステージに入って最初の相手は、メキシコ。2−1で勝ったが、実力をつけ自信を深めてきた相手に先制されたのを、同点としたのがクリンスマンだった。
 次の相手はクロアチア。日本と同じグループからアルゼンチンとともに勝ち上がってきたチーム。EURO96、イングランド大会でドイツは勝っているが、今回はそうはゆかない。双方の対抗意識が激しいプレーに表れた40分に、DFのクリスチャン・ベアンスにレッドカードが出てピッチの外へ。疑問の残る判定とも言えたが、10人となっては“老齢”チームに挽回は難しかった。
 82年大会以来5回出場のマテウス、90年以来3回出場のクリンスマン、ベテランを看板としたフォクツのチームのW杯は終わった。マテウスは後を振り向くことなくピッチを去ったが、クリンスマンは相手を待ち、クロアチアの選手たちと握手をかわし、ズボニミル・ボバンとシャツを交換した。
 この試合で彼の代表キャリアは終わる。ゴール数は47(108試合)、W杯は11得点(17試合)となったが、“ワンダリングスター”には次の大仕事が待っていた。


(週刊サッカーマガジン 2008年10月14日号)

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