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関学を日本一に、極東大会で日本をアジア一に、大会主催社の記者として珠玉の批評を残した 斎藤才三(下)

 斎藤才三さんが『関西学院大学蹴球五十年史』(1969年発行)に寄稿した「忘れ得ぬ懐かしいグラウンド」の中で最も印象の強かったこととして、1927年(昭和2年)の第4回早関定期戦で勝ったことを記している。西下した早大を迎えて、12月1日と2日に行なわれた試合は2−0、1−0で勝ったが、ともに無失点であっただけにGKとして嬉しかったのだろう。
 関西学院はすでに関西学生界では常勝となり、この年、中華民国の上海に遠征して、腕を磨いた。22〜23年のビルマ(現・ミャンマー)人留学生、チョウ・ディンの指導で日本全体のサッカー技術が上達し、神戸一中をはじめとしてスコットランド流のショートパスを重視するところが増えたが、関学は「スケールの大きいサッカーを目指す」としてロングパスを重んじていた。


昭和天皇の展覧試合

 東京の蹴球(サッカー)仲間に関西学院と斎藤さんが評判になったのは、1929年(昭和4年)。秋の明治神宮大会兼第9回全日本選手権大会(10月28日〜11月1日、現・天皇杯)と、この年から始まった東西大学王座決定戦(12月29日、明治神宮競技場)だった。
 明治神宮大会は関東の強チームが予選あるいは本大会で姿を消したため、関学は1回戦(6−1富山師範)準決勝(5−0蜂章クラブ)と大差で勝ち上がり、決勝で法政大を3−0で破って優勝した。
 この試合は昭和天皇の展覧試合で、新聞などでも大きく取り上げられたが、12月の東西大学リーグの1位チームの対抗戦は初めての企画であり、関東で4連続優勝中の東大と全日本選手権優勝の関学の対戦は注目度も高く、ショートパスとロングパスの対抗という点でも興味を持たれた。結果は3−2で東大が勝ったが、関学ではFBの門脇厚が急性肺炎で欠場したのが痛手となったようだ。
 後藤靭雄主将は回顧して、前半2−1とリードした後、3−1にすべきチャンスに、ゴール前1メートルからのシュートがバーを越えるという「不思議な」失敗がなければ……と悔しがっている。
 敗れはしたが、関東では無敗の東大とのこの大接戦は高く評価され、東大の攻めを再三の好プレーで防いだゴールキーパー、斎藤才三はサッカー関係者に強く印象付けた。

 30年5月、東京の明治神宮競技場で行なわれた第9回極東大会に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会/JFA)が初めて東西の大学を中心に、選抜チームを編成したとき、DFの後藤靭雄とGK斎藤才三が選抜されたのも、この昭和初期の関学の黄金期をつくりあげたこの人たちの実力が買われたといえる。


英国留学と本場のサッカー観戦

 この第9回極東大会については、この連載のいたるところで紹介しているのでここでは重複を避けるが、フィリピンに7−2で勝ち、中華民国とシーソーゲームの末、3−3で引き分けて、日本サッカーは初めて東アジアで中華民国と並んでトップに立った。国際的にステップアップすると同時に、この好成績によって日本オリンピック委員会(JOC)や大日本体育協会(現・日本体育協会)の中でも「蹴球もやるじゃないか」と評判になり、オリンピック参加への希望も高まった。日本サッカーの大きなターニングポイントとなったこの画期的な事件に、斎藤さんは大きな役割を果たしたのだった。

 この年の春に関学を卒業した斎藤さんは、英国のブリストル大学に留学し、あわせてサッカー観戦やFA(イングランドサッカー協会)やクラブを訪問して本場の事情を勉強した。留学は家業の衰退から1年余で中断、1933年(昭和8年)4月には大阪毎日新聞社に入社し、運動部で当時、この新聞社が主催していた全国中等学校蹴球選手権大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の運営と報道にかかわることになった。
 40年秋に退社するまで8年間、7回の大会を手掛けた。

 ブリストル大学留学中に田辺五兵衛さんへ送ったサッカーリポートは、いま読んでも面白く、自ら名ゴールキーパーであり、本場のサッカー観戦の経験を持つ斎藤さんの毎日新聞の記事――それぞれの試合評や大会評は当時の選手たちには貴重なアドバイスであり、私には珠玉の遺訓でもある。
 毎日新聞を去って、自動車の仕事に転じてからは、サッカーに直接かかわることはあまりなかったが、関学のOB会の総帥として長いあいだ、尊敬を集めていた。


(月刊グラン2009年7月号 No.184)

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