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賀川浩「サッカーは世界とつきあう窓やね」 By田中J太郎

オキナ(翁)メグミ 第7幕:日本サッカー、悲願達成までの目撃者 賀川浩(サッカー記者・74歳)
【ジイちゃんに訊け】W杯本選出場記念SPECIAL

御相伴役(聞き手):田中J太郎


岡野のVゴールがネットを揺らしたそのとき、日本サッカーはついにその悲願を達成した。そこに至る日本サッカーの悪戦苦闘をずっと見守ってきたジイちゃん、それが賀川浩さんだ。日本のサッカーを、そしてワールドカップを半世紀にわたってみつめてきた日本最強のサッカージイちゃんからサッカーの真髄を学ぼう!!


なにしろ50年も待たされてますからね

奇跡いうても、ホントの奇跡いうたら、やっぱりワールドカップ(W杯)の準々決勝で勝って、ベスト4に進出するくらいじゃないと……。何しろボクら50年から待たされ続けておったんやから。

――現役最古参のサッカー記者は、あの11月16日のジョホールバルの勝利を振り返って、そう笑った。冗談にしても、さすがに重いぜ。ラルキンのバックスタンドで、吠え祈り、落胆し歓喜し、汗と涙でヘロヘロになった御相伴役など足元にも及ばぬ日本代表への思いが賀川さんにはあるんだとあらためて思う。そして賀川さんの歩んだ歳月こそ11月16日に至る日本サッカーの長い道程なのだ。
賀川浩。大正13年、サッカー発祥の地・神戸(この論は我田引水的であっても間違いではないとは賀川さんの説明)に生まれる。その賀川さんが初めてサッカーに出会ったのは小学校のとき。当時、神戸では御影師範と神戸一中が強かった。

あの頃スポーツいうたら、まず野球でしたよ。それでもいくつかの小学校ではサッカーをやっていて、ボクの行った雲中小学校というのは中でも盛んなところだった。そこに御影師範のサッカーの歴史のなかでも非常に名のある方が先生で何人かいて、サッカーを教えてくれるわけ、蹴球というやつをね。いうてもただゴールがあって、みんなでわあっとやって、ゴール入れたら1点みたいなやつですよ。それを大きなボールでやったり、小さなゴムボールでやったりしてたわけです。
それと南京街があるでしょう。そこの子どもたちが、ボクらオジャミいうてましたけど、小さい小豆を袋に入れてね、それを蹴る遊びがあった。それをボクらも路地でやってね。落とさずに何回やれるかとか言ってみんなやってた。今のボールリフティングです。だからサッカー的な遊びはずっとあったんですよ。
本格的に始めたのは神戸一中(現・神戸高校)に入ってからです。この神戸一中いうのも当時すごく強くてね、全国大会優勝の常連校だった。ボクの先輩に二宮洋一さん(昭和初期を代表する名FW)がいて、後輩には岩谷俊夫や鴇田正憲らがいてと、日本代表を数多く出し、11年間に7回優勝した。そら強いとこですよ。それで中学3年のときに、兄(賀川太郎・日本代表)がキャプテンをやっていたこともあって、サッカー部に入って本格的に始めるようになったんです。


あの戦争のブランク、それが非常に残念だね

――体の小さかった賀川さんは最初マネージャー的なことをやっていた。昭和12年に始まった日中戦争は拡大を続け、15年には三国同盟、そして16年には太平洋戦争の開戦へと日本は巨大な戦争の歯車を回していた。戦時体制の真っ最中である。練習のボールの確保もままならないなか、破れたボールを分解して使える皮を新たに縫い合わせてボールをつくるなど、苦労話は山ほどある。
そんな時代だが、日本サッカーは昭和11年のベルリンオリンピックに参加。水泳の「前畑ガンバレ」で盛り上がったこの大会で、サッカー日本代表は当時強豪といわれたスウェーデンを破るという快挙を成し遂げる。
サッカー部に入った賀川さんは独特の指導法を編み出しては、後輩たちを鍛えていく。コーチなんていない時代にこーちまでやっていたわけだ。

よく言われることだけど、東京オリンピックでクラマーが来るまでは日本にサッカーのコーチ術はあってもコーチ学はなかったと。ボクらに言わせれば、そんな、コーチ術なんてものもなかった。要するにそれぞれの学校でみんな自分で工夫したんです。ベルリンの代表なんかもそんな選手の集まりですよ。自分で工夫して、スウェーデンを倒してしまうようなレベルまで達してたわけです。ただ残念なのは、そのレベルが戦争で自分ら一代だけのものとしか残らなかったんですよね。下の世代へと続かなかった。実際いうたら、それが非常にもったいない。ボクらはまだボールがないとか言いながらも、自分で修理してボールを蹴っている時期はあったんですよ。そのうちボールはどんどんなくなる、そればかりかグラウンドが畑になる。そして今度は勤労動員ということで工場へ行かなくちゃいけないことになる。練習する時間なんかないですよ。その5、6年のブランクというのは大きいですね。
ボクも大学行ってサッカーするわけですけど、途中戦争に行って中断してしまう。でもその前の世代は大学の間(当時は5〜6年)みっちりと練習もしてるわけですから。それで戦後にベルリンの連中と試合したときがあって、そのブランクを痛感したんですよ、ボクは。体力的にはこっちのが強くても、やっぱりこのおっさん連中は俺たちよりボールをよけい蹴っていた分うまいなと。そうするとやはり16〜18歳から22歳の間の練習が結局、選手をつくるのだと思う。それまでいくらうまくてもダメで、そこから21〜22までの間が選手を決めるというのが、その後のボクの持論になりましたね。


もう本気で死ぬ気で戦争に行きましたから

――神戸大学に入ってからもサッカーを続けていた賀川さんだが、戦争という巨大な時代の波はもはやサッカーをすることを許してはくれなくなってきた。昭和18年、学生の徴兵猶予が停止された。雨の神宮競技場を更新する学徒出陣式のニュース映像を、みんなも一度は見たことがあると思う。神宮競技場はこの秋、ボクらが代表の試合に一喜一憂したあの国立競技場の前身である。
そして「死ににいかなしゃあない」と思っていた賀川さんは、特攻隊員になることになる。

新聞には全然載らなかったですけど、ミッドウェーで大負けしたとか、サッカー仲間の兄貴が大和に乗っていたこともあって、みんな知ってましたよ。それで19年になって、これはもうあかんと。ボクらの世代のものが死ににいかんことにはしゃあないだろうと。おこがましい言い方やけど、こういう戦争になったら優秀な奴が死ななあかんのやというような言い方でね、始めからもう戦争行って死ぬ気でしたよ。それでどうせ行くんだったら飛行機にしようと、特別操縦見習士官の試験を受けた。目がいいし、運動神経もそこそこあったので通っちゃって、それから飛行機の練習ですよ。
特攻隊に編成されたのが20年の4月30日付です。そのとき、隊付けを命ぜられましたと申告に行ったら、隊長が冗談めかして、今年のスイカは食えないからねと言う。そういえばそうやな、スイカは食えへんなと。米軍はすでに沖縄に上陸してたからね、当然ボクら沖縄に行くと思っていた。そうしたらスイカは食えない。でも結局沖縄戦には間に合わなくて、あれは7月だったかな、先輩の奥さんが当時ボクらがスイカは食えないというてたのを覚えていてね、遠いところをスイカを持ってきてくれた。感激しましたね。だから、いまだにW杯を見に行くと、必ずスイカを食べるんですよ。ロサンゼルスでも食べたし、スペインでもメキシコでもね。今年もスイカを食べられたというのが、ボクのW杯の紀行文には必ずあるんですよ。今年もついにまた70歳でスイカを食ったとかね。スイカが命の証みたいなものです。


負けるべくして負けた最初のW杯予選です

――出撃待機のまま8月15日を迎えることになる。死ぬ気で行った戦争を、死なずに帰れと帰された賀川さんだが戦後の混乱の中ではなんとなく白けていたという。サッカー界の復帰は早く、敗戦の翌年2月には東西対抗、6月には今でいう天皇杯、全日本選手権が開かれる。この大会に賀川さんは選手として参加するが、サッカーからはできれば距離を置いていたかったという。
そして昭和26年、スウェーデンからヘルシンボリというチームが来日する。このときの観戦記事を頼まれて書いたのが賀川さんの最初の記者としての仕事であり、そこから半世紀にわたってサッカー記者の経歴が続くことになる。
昭和29年、日本はW杯挑戦の第一歩を踏み出す。3月、スイス大会のアジア代表を決める戦いが日本と韓国の間で交わされた。

29年の日韓戦、あの第1戦は寒い日でね、降雪が溶けたグラウンドは最悪で、いうたら試合したこと自体、間違いですよ。神戸の後輩だった山路修いうのがいきなりスライディングタックルに行ったら、べたっと背中に泥がついて、その泥が凍って、あとはもう悲惨なもんです。寒いときの試合のやり方なんて全然分かってないし、そんなに寒い日に試合したことないんだものね。審判はやめてもいいんだよというたんですよ。それと韓国の方からも、やめたらいかがですかと。
まあ、気持的にも甘いところがあった。韓国と日本は戦前は一緒にやっていたわけです。やってきた韓国チームに対しても、久しぶりによう来たという感じがあったんです。試合の形式も2戦やって、1勝1敗なら再試合ということになっていて、最初、調子悪いときに負けてもあと2つ勝てばいいみたいな図々しいところがあってね。それを向こうは、負けたら海に身を投げて死ねと言われるぐらい必死でやっているのやからね。
それとグラウンド状態に対する選手の起用も間違ってた思いますね。関西の選手が多かったんですよ。固いグラウンドの阪神で育った関西の選手では、関東のねばっとした土のグラウンドでは不利なのに。あのときの神宮は泥田のようでしたからね。
そういう色々のもんがあったとは思うんですが、どっちにしろあの日にやったら韓国に勝てないですよ。向こうは寒いところからやって来て、ユニフォームだって長袖で、それを日本は信じられんことに半袖のユニフォームです。濡れてもハーフタイムに着替えるということもない。そういうコンディショニングとか、そんなことに関する知識はまだええ加減なものだったんですよ。そういうのは、みんなクラマーが来てからですよ。非常に包括的に、一般的にサッカーの知識が入るのは。


W杯で釜本を見たかったよね

――最初のW杯予選日韓戦は第1戦が1対5という大敗に終わる。必死で臨んだ第2戦も引き分け、日本のW杯出場はならなかった。そして賀川さんが言う「戦争中のブランク」を日本サッカーが乗り越え発展していくにはドイツ人コーチのデットマール・クラマーの登場を待つしかなかった。クラマー招聘のかなり前、メルボルン・オリンピック(昭和31年)の頃に賀川さんは新聞の対談で、「コーチも何も外国人にしたらどうですか。プロを雇った方が手っ取り早いやないの」と、外国人コーチの招聘をすでに提言している。
「やっぱりすごい人でしたね。これでみんな日本は良くなったわけです」と賀川さんが絶賛するように、クラマーの指導のもと、日本サッカーは大きく変革する。そして東京オリンピック(昭和39年)では予選でアルゼンチンを破り準々決勝に進出。翌年からはJリーグの前身である日本リーグが発足した。
そして昭和43年、日本サッカーは一つの頂点を迎える。メキシコ・オリンピックに出場した日本は銅メダルを獲得するのだ。そのとき活躍するのが、賀川さんがその選手生活のすべてを見届けてきた天才ストライカー釜本邦茂である。

釜本を初めて見たんは、彼が京都の山城高校の1年で全国大会に来たときかな。当時日本代表のコーチをしてた岩谷が「一人見てもらいたいのがおる」言うんで見に行ったら、そこになんとまあでかくて、ぬうぼうとしたのがいる。それでボールを後ろからボレーで受けたときの感じが何ともいい感じなんですよ。それが釜本だったんです。「あれはオリンピック(東京)に間に合うかなと思っているんですよ」と岩谷と話し合った。
そのあと彼は早稲田に進むんですが、1年でリーグ戦の得点王でしたからね。だけど、そこで終わらないで日本代表の合宿に行って、代表の練習ができた。それで東京オリンピックでしょう。予選なしで出るわけだから、充分に練習をした。1年間に合宿を何回やったかな。百何日合宿してましたよ、遠征も含めたら。普通のプロチームでもそんなことできないですよ。選手にとって一番大切と言っている18から22歳までの間を釜本はみっちりやれたわけです。
メキシコ・オリンピックの予選が終わったときに、釜本を単身ドイツへやったんですよ。これは当時としては誰も考えつかなかったことで、海外へ練習に行くいうたら、みんなでゾロゾロと行って、コーチがついていって、そこで練習してというもの。一人で放り出すなんていうことは今と違って誰も考えてない。それで非常に良かったのは、23歳以下のドイツ代表候補の合宿参加することができたんですね。
それで帰って来て、最初の試合を見てたまげたよ。相手をかわしてシュートしたときの速さが、こんなだったかなというくらい変わってた。すごく伸びてるんです。それで、オリンピックに出て、得点王になっちゃったよね。だから、上り坂のそういうときの伸び方といのは、そういう選手が出てくれば強いんです。今の中田(英寿)なんかはポジションは違うけど、そういう強さがあるんですね。
それと釜本については、こういう成長からその後引退までを見届けることができたからね。記者として良かったですよ。これから色んな選手が出るやろうけど、当時としては最高の選手の成長過程から最盛期、円熟期、そして選手としての晩年を全部横で見ていたから、色々サッカーを見るうえで、一つの比較対象となって楽でしたよ。W杯へ行ったりすると、ここに釜本がおったら、このチームに勝つかなとか、この場面やったら彼なら得点やなとかね。まあ、釜本がW杯へ出ていれば目立ったでしょうね、点を取るということに関しては。今の選手よりうまいとかなんとかいうんじゃなくて、点を取ることに関しては天下一品やったからね。


サッカーはすべて世界と接してるんです

――メキシコ・オリンピックでの快挙のあと、日本サッカーはなが〜い低迷の時代を迎える。賀川さんに言わせると「あの少数のメキシコ組みを育てるためにずっとやってきて、次の世代のところへ手を回していなかった」と。それとブラジルやオランダなど世界のサッカーに目移りばかりして日本代表チームとしての指針が定まらなかった。その指針を打ち出したことにハンス・オフトの功績があり、さらにそれを推進したところに加茂周の功労があると。
賀川さんが見た凍りつくような神宮での日韓戦から半世紀あまり、暑いマレーシアで日本はようやくW杯出場という一歩を手に入れた。現在、賀川さんは長年勤めた新聞社を退社し、Jリーグコミッサリーなどの役職も退き、現役最古参のサッカー記者として今日もスタジアムからサッカーを見つめている。
最後にW杯出場を果たした日本代表に喝! を入れてもらおう。

大事なのは、自分たちがなぜ110分もかからなんだら、イランに勝てなかったかということね。あるいはなぜ韓国に負けたからあのあと大事になって、興行としてはこんな面白いものはなかったですけどね。ただサッカーを志す者として、なぜあそこで韓国に負けたのか、なぜカザフスタンで、なぜウズベキスタンで点を取れなかったのか、そういうことは一人一人選手たち、コーチが全部、自分で薬にして積み重ねないといかんわね。彼らは充分にそれを感じていても、メディアがやたらと持ち上げることするから、今の選手は全体にのんびりしすぎてる。ボクがいつも言うのは、いくつまでサッカーをやる気なんだと。23歳になるまでにうまくなってしまわないと終りやぞと。それを50歳までやる気なんかと言いたいくらい、ゆっくりしているよね、積み重ねていく過程にしても何にしても。だから、中田が出てきて20歳かそこらで、みんなびっくりしてるけど、それじゃダメですよ。
それと、これもボクの持論なんですが、チームというのは、らしくないのがいる方がいいチームになる。昔のベルリン・オリンピックの頃には川本泰三というまったく発想の違う人がいた。この人はヘディングをしないんですよ。センターフォワードのクセに。そのかわり足でのシュートは素晴らしいコントロールだった。メキシコの場合も釜本ほど自我の強い選手はいないですよ。彼はずうっと点を取ることが命みたいな男だったから、試合に勝っても自分が点を取らなかったら、全然面白うないんです。いわゆる日本人らしくないわけ。だけどチームは、それを生かしたわけです。みんなが釜本を生かしたから、釜本はみんなのために生きた。それで銅メダルまで取るわけです。
ONE FOR ALL, ALL FOR ONEという言葉がありますよね、フットボールの格言で。日本にはONE FOR ALLという考え方はあっても、ALL FOR ONEというのはあまりなかったんです、従来は。いわゆる勤勉な日本人というのには、チームのために身を捧げるというのが美徳でしょう。一人を生かすため、自分が生きるためという発想はあまり出てこない。異質なもの、変わったものが混じっていた方がチームというのはよくなるんです。もう一つ上のチームになるんです。同じタイプが揃ったら損ですよ。
今度のチームで中田は、そういう意味でも面白いと思ってますね。中田は選手としてはまともで異質とは思わないけど、普通のメディアから見れば変わっているということになるのかな、その彼が認められ代表の中心になるというのは日本も良くなってきてるということでしょう。これは何もサッカーだけでなく、社会全体についても言えることだと思いますよ。
最後に、サッカーというのは、すべて世界と接しているところなんです。ボクらがこんなにアホみたいに長くやっているのは、サッカーという窓を通して世界を見られる、世界とつきあっていける、そういう楽しみですよ。いよいよ日本はW杯に出場し、2002年には開催するのですが、それを通してその楽しみを多くの人が得てほしいと思うてます。


(週刊ヤングジャンプ「オキナ(翁)メグミ」)

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