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釜本邦茂(1)W杯の実績はなくとも世界から高い評価を受けたメキシコ得点王

 記憶に残るストライカーは、これまで9人が登場し、10人目は釜本邦茂(前JFA副会長)をと考えた。
 一人目のフェレンツ・プスカシュ(54年ワールドカップ準優勝ハンガリー代表主将。レアル・マドリードでも欧州チャンピオンに)から9人目のユルゲン・クリンスマン(90年W杯優勝。ドイツ、イタリア、イングランド、フランスの各国リーグでも活躍)まで、いずれもW杯で素晴らしい活躍をし、欧州トップリーグでも実績を残したストライカーだった。

 釜本は、W杯には出場していない。欧州のトップクラブでの実績もないが、それでも私には強く、長く記憶に残るストライカーであり、日本のサッカーファンにも――いや、それだけでなく、ある年齢層の人たちには、最も有名なスポーツ選手の一人でもあった。
 彼の国際舞台での最も華やかな成績は1968年10月のメキシコ・オリンピック。日本代表は3位となって銅メダルを獲得。釜本は6試合で7ゴールを決めて大会の得点王となっている。
 長沼健監督(故人)岡野俊一郎コーチと、2人の師匠デットマール・クラマーの指導と、メキシコの高地対策をはじめ、しっかりした大会への準備、そして、4年前の東京オリンピック当時からほとんど変わらないメンバーによるチームワークが栄光の基礎だったが、4年前よりも大幅に能力アップした釜本の力が大きかったことは誰もが認めるところだった。
 この銅メダルチームは、2年後の70年W杯にも意欲を燃やしたが、69年に釜本が肝臓障害で戦列を離れ、彼を欠くチームはソウルでのアジア予選で敗退した。
 オリンピックはW杯よりレベルが低いと見られている。U−23という年齢制限が設けられた今も、あるいは、アマチュアというカテゴリーであった頃もそうだが、ベスト4に入ってくるチームのレベルは高い。64年東京オリンピック優勝チームを主力としたハンガリー代表は66年W杯でブラジルを倒し、72年ミュンヘン・オリンピック優勝のポーランドは74年W杯で3位になっている。
 また1948年のロンドン・オリンピックの得点王となったグンナー・ノルダール(スウェーデン)がのちにセリエAで大活躍したことはよく知られているが、釜本の次の大会のカジミエシ・デイナ(ポーランド、9得点)やオレフ・ブロヒン(ソ連、6得点)などのその後の国際大会での活躍もオリンピック・サッカーのレベルの高さを示している。

 釜本はメキシコ・オリンピックの得点王と、そのあとの日本での実績、そしてまた、海外のトップチームとの交流試合でのプレーぶりで、日本だけでなく、世界から高い評価を受けていた。
 1984年8月25日、東京・国立競技場で行なわれた引退試合、ヤンマー対日本リーグ(JSL)選抜に、6万2,000人の満員の観衆がスタジアムを埋めたが、あの王様・ペレ(ブラジル)と左足の芸術家・ヴォルフガング・オベラート(74年W杯優勝西ドイツ代表)がヤンマー側のプレーヤーとして参加したのも、釜本との対戦を通じて彼の力と人柄を知ったからだった。この年の6月にフランツ・ベッケンバウアーとパリで出会ったとき、「釜本の引退試合の連絡をもらったが、前々から予定が入っていて出られないのは残念だ」と話していた。

 ベッケンバウアーとくれば、ヨハン・クライフ(オランダ)だが、彼も80年にNASL(北米サッカーリーグ)のワシントン・ディプロマッツとともに来日して、釜本と試合をした一人。当時、低迷に悩む日本代表の強化策を尋ねられて「一番能力があるカマモトを代表に復帰させればいい」と語っている。
 80年といえば、彼の選手生活の“晩年”にあたるが、この前年のニューヨーク・コスモスとの試合で、日本選抜(代表を引退していた)で出場した釜本は同点ゴールを決めている。コスモスの技術アドバイザーであるドクター・マッセイ(ペレのトレーナーでもあった)は、「うちの元気だが若いDFでは、グレート・カマモトを防げないのは仕方がない」と兜を脱いだ。

 24年前の引退試合のときに発売されたサッカーマガジン別冊「さよなら釜本」特集の当時の関係者の語録で岡野俊一郎はこう言っている。「高校1年生、16歳の彼を最初に見たとき、才能はあったが、ここまで来るとは思わなかった。今日のプレーを見た小中学生は釜本を別格と思わずに、釜本にも16歳のときがあって、それがこうなったことを見て欲しい」と。
 彼がどのように成長していったかを次号から眺め直すことにしたい。


(週刊サッカーマガジン 2008年10月28日号)

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