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釜本邦茂(2)高1、16歳の、ヒョロリとして、何とも言えぬ魅力を秘めていた日本代表の得点記録ナンバーワン

 JFA(日本サッカー協会)が今年9月3日に発行した「日本代表公式記録集2008」は、日本代表チームデータベース委員会(委員長・小倉純二JFA副会長)監修による651ページの素晴らしい大労作である。
 フル代表だけでなくU−23、U−20、U−17も――。さらには「なでしこジャパン(女子代表)」をはじめ、U−20女子代表、U−17女子代表、それにフットサルもビーチサッカーも掲載されている。サッカー好きには、試合記録の一つひとつに歴史を感じ、歴代ランキングを眺めて先人の足跡を偲ぶ、まことに得難い資料である。関係者の皆さんのご苦労には感謝の他はない。
 その記録のなかで、
▽個人(ゴール)に関する記録の「日本代表Aマッチ得点ランキング・トップ20」を見ると、
 (1)釜本邦茂 75得点(76試合)選出期間1964−1977年
 (2)三浦知良 55得点(89試合)選出期間1990−2000年
 (3)原博実  37得点(75試合)選出期間1978−1988年
 (4)高木琢也 27得点(44試合)選出期間1992−1997年
 (5)木村和司 26得点(54試合)選出期間1979−1987年 以下略
となっている。現役日本代表最多得点者の高原直泰が23得点(57試合)で第6位だから、釜本の記録は当分破られそうにはない。

 その釜本を最初に見たのは、1961年(昭和36年)1月の第39回全国高校選手権大会のときだった。
 第一印象はヒョロリとして背が高く、動きはゆっくりと見えたが、後方から送られたボールのバウンドに、ヒザを上げて受けたときの感じがとても柔らかく、魅力的だった。
 すでに、前の年の秋の国体で活躍していた。京都の太秦(うずまさ)小学校から蜂ヶ岡(はちがおか)中学校を経て、山城高校の1年生だった。
 のちに、外国人選手と比べても引けを取らない立派な体になった。両親とも上背があり、兄、姉たちも長身だが、本人は小学生のときは大きい方ではなかった。中学1年生で9番のユニフォームを着たら、9の数字の下がパンツに隠れて0番に見えたという笑い話もあった。
 それが、中2、中3、高1とどんどん身長が伸びていった。
 小学生の頃に「兄と一緒に駆け回っていた」(本人の話)ことが、ヒザを強くし、こうした急激に身長が伸びてゆく時期にも大きな故障をしなかった理由かもしれない――と私は考えている。

 太秦小学校の池田輝也(いけだ・てるや)先生は、私と同世代で、京都師範学校からボール扱いが上手で、キックのフォームの美しいプレーヤー。同じ京都のチームでともにプレーした古い仲間だが、先生によると、「その頃、同校は東西130m、南北70mから130mの変形の広い校庭があって、生徒は休み時間にボールを蹴り、課外体育で、学級対抗や学年対抗試合をしていた」。
 その中で、5年生の上手な子どもがいると池田さんは注目し、「ドリブルが巧みで、右も左も蹴ることができたのに感心した」と言う。1学年上に二村昭雄(にむら・てるお)がいて、中学、高校、そして早大もずっと一緒にプレーした。2人とも花形だったが、池田先生は釜本が6年生のときの試合で4点を取ったのを覚えているそうだ。

 サッカーとは別にソフトボールで邦茂少年は、よくホームランを打ったとは先輩・二村の話。ボールを叩く、あるいは「とらえる」インパクトのうまさは、天性のものがあったのかもしれない。
 そうした彼の少年期について1961年当時の私はもちろん、まだ知ることはなかったが、ヌーボーとした感じの中に、何とも言えぬ魅力を感じたのは確かだった。
 彼が高1で二村が高2で迎えた、このときの高校選手権では2回戦で敗退してしまった。しかしこのときから、私と岩谷俊夫の間では「釜本は64年の東京オリンピックに間に合うだろうか」という会話が交わされるようになる。
 この6年前の1955年、私たちは第33回高校選手権で優勝した浦和高校のCF志賀広を見て、日本代表のストライカーがようやく現れた――と喜んだものだ。上背は釜本ほどではないが、体に力があり、抑えの効いたシュートと突破力はズバ抜けていた。1956年のメルボルン・オリンピックの代表候補にもなったが、この逸材はその後うまく伸びず、私には日本サッカーの痛恨事に思えた。16歳のノッポに今度こそ、という願いが強まった。


(週刊サッカーマガジン 2008年11月4日号)

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