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釜本邦茂(4)早大1年から大学リーグ得点王。長期合宿で鍛えて、20歳でオリンピック代表CFに

 1963年9月15日関東大学リーグ、早大の第1戦の相手は日大だった。スコアは5−1、新人・釜本邦茂は前後半に2点ずつを取って4点を記録した。11月23日の立教戦までの7試合に全勝、釜本は11ゴール(チーム総得点は28)を挙げて得点王となった。
 春の新人戦で、ヘディングシュートを決めたことが、ゴールになることなら何でもやろうという気持ちに火をつけ、ヘディングにも力を入れた。得意の右足のシュート練習も増えた。
 若い警察官時代に剣道に打ち込んだ父・正作さん(故人)は「自分の型を持て」と繰り返し語っていた。シュートの型を――彼が思うようになったのは、この頃だった。

 63年秋に翌年のオリンピックの運営リハーサルを兼ねて、南ベトナムと西ドイツアマチュア選抜を招き、日本B、日本Aと4チームのリーグ戦を行なった。釜本は日本BのFWで出場していた。その対南ベトナム戦で、GKのロングボールに彼がヘディングでほとんど競り勝っているのをスタンドで見た。
 隣にいた平木隆三コーチと「ボールの落下点を見極めるのが、ずいぶん正確で、ジャンプのタイミングも良いね」と話し合ったのを覚えている。

 1年先に早大に入った山城高の先輩・二村昭雄は「7月の早慶ナイターの選手紹介のとき、彼への拍手が断然多かった。入部早々から早稲田のスターですよ」と言っていた。
 反応の早い東京のファンは、釜本にとって、まことによい刺激剤――良いプレーをして周囲が喜べば、また自らも高揚してよいプレーを生み出せる釜本を早稲田へ送り込んだのは正解だったと思った。

 64年11月、神戸の王子競技場で行なわれた第43回天皇杯に釜本は早大のメンバーとして出場して優勝した。オリンピックを間近に控えたこの大会には、推薦の4チームと地区予選を勝ち抜いた4チームが参加した。古河電工が出場を取りやめたため、7チームによるノックアウトシステムに変更となった。
 早大は東洋工業を破り、続く関大戦にも勝利し、決勝では日立本社を3−0で下して優勝した。西山孝朗主将を中心としたディフェンスは強く、松本育夫、桑田隆幸、二村昭雄、そして釜本らの攻撃陣も強力だった。私は釜本が1回戦の対東洋工業戦で、ペナルティエリアの右内側を縦に突破して、中へ鋭いクロスを送ったプレーに、釜本もここまで速くなったと喜んだものだ。当時の技術委員だった岩谷俊夫に「もうセンターフォワードは決まったね」と言ったら、「僕も同意見だが、まだまだという人もいますよ」との答えが返ってきた。

 64年の4月から代表候補の長期合宿がはじまった。東大の検見川練習場で合宿し、午前中は学生は大学へ、社会人は会社へ行き、午後から練習という形だったが、学生たちは、午前中も学業を休んで練習した。練習の中にはフィジカルトレーニングも課した。
 東京オリンピックを半年足らず後に控えての、この3ヶ月の合宿で釜本や小城得達など若いグループの体力はしっかりとついて、基礎プレーの反復練習で技術の精度を高めた。
 56年メルボルン・オリンピックの出場経験を持つ八重樫茂生(33年3月24日生まれ)がクラマーの指導と自らの努力で、代表の中でも一段上のレベルに上がっていたことも、釜本たち若手の進歩に大いに役立った。手抜きプレーを許さない厳しい10歳上のベテランが範を示すことで、チーム全体の底上げが進んだ。

 64年夏、釜本はフル代表のメンバーに選ばれて欧州遠征に向かった。JFAは60年から毎年夏にフル代表を欧州へ派遣し各国を転戦するとともに、西ドイツのシュポルトシューレでの練習を積むことにしていたが、釜本にとっては初体験だった。日本海を船で渡ってソ連(現・ロシア)国内での4試合の初戦、ハバロフスク陸軍戦の後半から起用された。
 この年の7月21日の試合から9月8日の遠征最後の対グラスホッパー(スイス)までの12試合のすべてに彼はCFのポジションで出場した。遠征での初ゴールは第5戦の対ルーマニア赤旗クラブ(ブラショフ)だった。

 50日を越える欧州武者修行ののち、9月12日に東京オリンピックの代表が決定した。20歳の釜本も選ばれた。
 その東京オリンピック――日本は1次リーグB組で強敵アルゼンチンに逆転勝ちする“快挙”を演じた。第2戦のガーナに2−3で敗れ、準々決勝ではチェコに完敗したが、世界の舞台での1勝はメディアにも世間にも高く評価された。釜本もまずまずの働きだった。
 しかし、本人は1点も取れなかったことに不満が残った。


(週刊サッカーマガジン 2008年11月18日号)

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