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釜本邦茂(5)東京からメキシコへ。代表でもまれ、大学リーグで実証。62年大会得点王も推奨した伸び盛りの時期

 番外編として前号では森島寛晃(セレッソ大阪、日本代表)に触れた。10月28日号から始めた釜本邦茂の連載は、これまでの4回で山城高校から早大に進み、大学2年で1964年の東京オリンピックに出場して対アルゼンチン戦の逆転をはじめ、対ガーナ、対チェコスロバキアにフル出場したところまでを紹介してきた。
 今回から、4年後のメキシコ・オリンピック得点王への歩みを記すことになる。

「東京オリンピックではベスト8進出メンバーの一人として嬉しくはあったが、物足りなさがあった。点を取れなかったからだ」と釜本は自叙伝で語っている。
 それでも私は大阪での5、6位決定戦で彼が日本の唯一のゴールを決めたことを喜んだ。5、6位決定戦というのは、東京オリンピックの準々決勝で敗れた4チームをを関西に集めて、5−8位までの順位決定戦(10月20〜22日、長居ほか)を行なったもの。
 日本は10月20日、大阪長居での対ユーゴスラビア戦に1−6で敗退した。ユーゴには、あのイビチャ・オシム前日本代表監督がFWとして出場していて、2ゴールを決めている。日本の1点は釜本のゴールだった。東京での3試合で自らゴールできなかった不満が、大阪での1ゴールに表れていたのだろうと想像した。

 大学に入り、代表に加わった“東京”での、この1年半は検見川の1日3回練習の長期合宿や2ヶ月の海外遠征も行なった。左手を使えば、左のキックが上達するかもしれないと食事のときに左手で箸を使った。「人ごみを速くすり抜けることで、DFをかわす名人になった先輩がいる」と聞けば、街の中で“すり抜け”を繰り返した。自分のプレーに役立つと思うことは何でもやった。こうした上達への意欲、ゴールを取りたいという気持ちは、やがてプレーに表れる。
 64年秋の関東大学リーグで、私たちは釜本邦茂がたくましく、強く、速くなっているのを見た。オリンピックでの輝きで“20万ドルの足”と有名になった杉山隆一を擁する明大と早大との対戦は、優勝争いも加わって、駒沢競技場の入場券売り場に長い列が並び、キックオフを遅らせることになった。
 関西からこの試合の取材に出かけた私は、東京でのスポーツ好きの反応の早さに驚くとともに、36年、“ベルリンの奇跡”の年の関東大学リーグでオリンピック主力の早大と上昇期の慶大との対戦において、やはり観衆の多さで、試合開始が遅れたという伝説を思い出した。早大は勝点1の差で優勝を杉山・明大に譲るが釜本は7得点(7試合)で2年連続得点王となった。

 65年から企業チームによる全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)がスタートし、企業チームのレベルアップが加速する。大学生の釜本はまだ無縁だったが、海外遠征で腕を磨くというJFAの代表強化方針のおかげで、3月に東南アジア、7〜8月にはソ連、東欧、西ドイツへ、代表チームの一員として出向いて、強豪相手との試合を重ねた。
 大学での練習と試合、そして代表での練習と試合、それも、東南アジア勢、あるいはソ連、ヨーロッパ勢とレベルの違う相手との対戦は、このストライカーの大きな刺激となる。
「大学の仲間とやっている釜本は、香港ではまだ、その癖が抜けないが、次の地クアラルンプール辺りから、相手の速さにも負けないようになる。3試合目になればもう大丈夫」と長沼建監督は、海外での彼のプレーの変化を眺めていた。

 夏にヨーロッパでもまれたあと、秋の大学リーグに出るとプレーの質は違って見えた。65年秋の関東大学リーグで14得点(7試合)66年には13得点(7試合)という記録は、こうした彼のダブルスタンダードでの練習と試合の繰り返しで生まれていった。ストライカーにとっての大切な“ゴールへの自信”も、またこうして培われていった。

 65年12月にスウェーデンのAIKストックホルムとソ連のトルペド・モスクワが来日。日本代表を加えた三国対抗試合のとき、私は優勝したトルペドの監督とキャプテンのバレンチン・イバノフにインタビューをした。話が杉山と釜本に及んで、どちらの選手がよいと思うかと尋ねると、監督は杉山の速さに魅力を感じているといい、イバノフは釜本がよいと言っていたのが印象に残った。
 イバノフはソ連代表のFWで、62年チリ・ワールドカップの得点王でもあった。彼はロシア人としては大きくはなく、スリムでスマートなプレーヤー。“消える”位置取りから、突如として現れてゴールを奪うプレーで知られていた。そのイバノフが杉山でなく釜本を推したのは、同じストライカーとしてのサムシングを見たのかもしれない。


(週刊サッカーマガジン 2008年12月2日号)

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