賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >釜本邦茂(6)超過酷、アジア大会で3位。大学最後の天皇杯勝者となった22歳

釜本邦茂(6)超過酷、アジア大会で3位。大学最後の天皇杯勝者となった22歳

 アウェーのカタール戦の結果は3−0。快勝おめでとう。「カタールは強い」「今度は苦戦」という大合唱のなかで、選手たちはしっかり仕事をして勝点3をもぎとり、日本全国を喜ばせてくれた。
 嬉しいのは、最終予選の3試合とその直前の親善試合3試合でチームが徐々に一つになってきていることだ。それは田中達也に代表される「ボールを奪われれば、すぐにとり返しに行く」や、相手ペナルティエリアに3人、4人が入り込んで行く攻めに表れている。エリア内に入り込む人数が増えればゴールを取りやすくなる。

 先制ゴールは内田篤人からDFの裏へ出されたパスを田中が追って、右ポスト近くからシュートを決めたもの。後方の長谷部誠が、そのボールを追ったことで、相手DFが混乱。田中はノーマークになった。2点目は玉田圭司。エリアのすぐ外、中央から少し左寄りの位置で、長谷部からのパスをダイレクトシュートで決めた。その長谷部は第一次攻撃のときにエリアへ進出していて、長友佑都のヘディングパスを受けて、玉田に渡した。これも多数攻撃の成果だった。
 3点目は右CK(ショートコーナー)で、中村俊輔―遠藤―中村俊からファーポストへ、彼の十八番の“上げて落とすパス”に闘莉王がジャンプヘッドで合わせた。もう一人の長身・寺田周平と二人が落下点近くにいたのが成功の因。

 左足を痛めていた中村俊だったが、やはり素晴らしい。先制点のパスを出した内田へつないだのは彼だが、中盤で左へボールを出すと見せかけて、反転して右の内田へ送った。そのプレーに、テレビの前で思わず「うまい」と声が出た。
 楽しい深夜の中継放送だった。


 さて、釜本邦茂の連載――。
 20歳、早大2年のときに64年東京オリンピックに出場し、日本代表のCFとなった釜本は、代表と大学の試合と練習をこなしながら実力を伸ばしていった。
 22歳、66年は第5回アジア大会(バンコク)があって、ぎっしりスケジュールが詰まっていた。
 この年の7月から8月、日本代表のソ連・ヨーロッパ遠征に参加して、1ヶ月間に10試合を戦った(13得点)。帰国すると今度は早大で関東大学リーグに出場(7試合13得点)。11月25日の中大との優勝決定戦には欠場して代表の合宿に入り、11月26日の香港との親善(壮行)試合を済ませてバンコクへ飛んだ。
 アジア大会のサッカーは12月10〜20日までの間に7試合の超過密日程だったが、釜本は全試合に出場し、6得点を挙げて銅メダルに貢献。バンコクから帰ると、12月24日からの全国大学選手権(ノックアウト制)に出場して優勝した(3試合3得点)。さらに1月12〜15日までの第46回天皇杯に早大で出場。1回戦で三菱重工(3−1)準決勝で八幡製鉄(2−1)決勝で東洋工業(3−2)を破った(3試合1得点)。
 7月以降の試合を合計すると31試合、37得点。代表Aマッチもあり、ヨーロッパでの相手チームはアマチュア代表あり、セミプロ・クラブありだった。

 バンコクでのアジア大会は、11チームを3組に分けて、各組上位2チームの計6チームが、また2組に分かれてリーグ戦を戦い、上位2チームが準決勝に進む方式。サッカーの入場料で収入を上げるために試合数を多くしたものだ。
 日本は1次リーグB組でインド(2−1)イラン(3−1)マレーシア(1−0)を破って全勝で2次リーグAb組に入り、シンガポールを5−1、タイにも5−1で勝って、5試合全勝で準決勝へ。ここでBb組2位のイランと再び顔を合わせた。
 12月には珍しい異常高温のなかで、動きの量の多いプレーを続けた選手たち。見るのも痛々しかった。主将の八重樫茂生は1次リーグのイラン戦で足を負傷して、そのあとの試合を欠場。宮本輝紀は発熱を押しての出場で、結局、一度は完勝した相手に1−0で敗れてしまった。それでも3位決定戦で気力を振り絞ってシンガポールを2−0で下した。

 大会を視察したFIFA(国際サッカー連盟)のサー・スタンレー・ラウス会長は「日本が3位に終わったのはスケジュールが過酷過ぎたため。そうでなければ完全に優勝していた」と語っている。
 私はこの大会を現地で見て、釜本はまだトラッピングなどに不満はあるが、すでにアジア・ナンバーワンのストライカーであることを感じた。ヘディングはゴールするだけでなく、パスとしても別格だった。
 帰国後の天皇杯で、我々はまた釜本の別の面を見る。足の故障のため自らはディープ・センターフォワードとなり、細谷一郎、野田義一、田辺暁夫たちを走らせた。釜本の組み立てとパス能力に目を見張った。大学チームの天皇杯優勝は、このときが最後となっている。


(週刊サッカーマガジン 2008年12月9日号)

↑ このページの先頭に戻る