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釜本邦茂(10)自らストライカーであったデアバルコーチとのマンツーマン。休養とサッカー漬けの2ヶ月で脱皮

「釜本のFKで壁に立つときは、本当に嫌だった。彼のシュートをまともに体に受けたら、大変だったから」とは早大で同期で、のちにライバル東洋工業のDFになった大野毅の言葉。大野が壁に立つようになった67年、23歳の頃の釜本邦茂の若い力に満ちたプレーを、今の目の肥えたサッカーファンに見てもらいたかったと思う。
 ボールを扱う巧みさやドリブルのステップ、あるいはフェイントの多彩さといった点で、今の23歳の中には当時の彼よりも上に見える者もいる。しかし、天性のバランスの良さにフィジカルの強さが加わったこの頃の釜本のプレーは、“しなやか”だった。瞬間的なダッシュの速さと接触したときの頑健さを備えたプレーの迫力に誰もが目を見張り、これまでの日本サッカーに乏しかったパワーの魅力を感じていた。最も顕著なのが美しいフォームから繰り出されるシュートのパンチ力だった。

 JSLにデビューしたこの年の11月の日立本社戦で、日立側は釜本のためにGKの交代を二人も出すことになった。片伯部延弘が後半に釜本と接触して負傷してしまう。すでに交代枠(当時は二人)を使っていた日立は、フィールドプレーヤーの海野勇をGKに起用した。その海野は釜本のシュートを手で止めようとして、指と指の間に裂傷を負ってしまう。素人のGKが手で防ぐには、ボールの勢いが強すぎたのだった。3人目の平沢周作は負傷こそしなかったが、不慣れなためにファイブステップの反則を取られて、そこから1点を追加されて、試合にも0−3で敗れている。
 そうした力を持つ逸材が一段上のレベルに上がってくれれば――。68年1月から2ヶ月の西ドイツへの単身留学に、私たちはひそかな願いを託していた。

 2ヶ月後、彼は日本代表に合流し、メキシコ、オーストラリアを転戦した。秋のオリンピックの本戦に備えて“高地”を体験しておこうという3月26日のメキシコシティでの試合は、初めて高地を経験する日本選手にとって、とても苦痛なものだった。メキシコ・オリンピック代表に0−4で完敗したのは、シーズンオフの後で選手の調子が整っていないこともあったが、一番の理由は慣れない高地での試合だった。長沼健監督、岡野俊一郎コーチは対策の必要性を感じた。
 苦しい体験の後、オーストラリアに飛んだ日本代表は3月30日にシドニー、31日にメルボルン、4月4日にアデレードで同国選抜チームと3試合を行なった。
 チームの調子が上がり始めて、釜本の爆発力が引き出された。第1戦は2−2、第2戦は1−3、第3戦は3−1と1勝1分け1敗の成績だったが、釜本は日本の6得点のうち4得点を、それも素晴らしいゴールで決めた。

 オーストラリアでサッカー専門誌を発行していたアンドレ・ディットレ記者が、このときの彼のプレーを見て、「アジアにマンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベストや、イングランド代表のジェフ・ハーストに匹敵するストライカーがいる。と言っても信じないかもしれないが、実際に彼らと同じ力を持ったFWが日本にいるのだ」というリポートを世界に発信した。
 そのディットレ記者のリポートは雑誌にも掲載されたが、私たちはその年のJSLの開幕戦で「ジョージ・ベスト、ジェフ・ハーストに匹敵……」が決して大げさでないことを知る。

 68年シーズンの開幕戦で、名古屋相互銀行を相手に彼が決めた先制点は、右からのボールに寄って、反転して左足のシュートを決めたものだが、そのボールに寄って、振り向き、足を一閃した速さはまさに電光石火という感じだった。
「ボールを止めて、フェイントをかけて、シュートへ持っていくのを日本人はイチ、ニ、サンでする。ヨーロッパではイチ、ニ、ブラジルではイチでやってしまう」。
 クラマーがかねてから強調していた一連の動作のスムーズさを、私たちは西ドイツ帰りの釜本に見ることができた。
 この不思議ともいえる急成長、あるいはステップアップは、釜本自身の話やデアバル・コーチから後に聞いた話と重ね合わせると、
(1)デアバルの適切な指導
(2)コンディションづくり
(3)西ドイツのプロを目指す若手との濃密な練習が叶ったこと
(4)釜本自身にとっては大学1年以来、東京オリンピックを含めて、びっしりと休みのない練習と試合の繰り返しから解放されたこと
(5)練習量は多くなくても、ボールを持ったときには、ドイツ人の激しいタックルを受ける緊張感のある練習だったこと
(6)練習時間以外にも、テレビや映画で欧州や世界一流のプレーを見たこと
 デアバル・コーチとマンツーマンで、ときには一人で映画を見に行くなど、日本とは違ったサッカー漬けの日々が、彼の急成長につながったといえる。


(週刊サッカーマガジン 2009年1月13日号)

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