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イタリアでのU−17世界選手権

 第1回17歳未満世界選手権大会の会場となったのは、イタリア・トスカーナ州の諸都市。参加16チームを4組に分けた1次リーグは、
▽A組(イタリア、アメリカ、中国、アルゼンチン)がモンテカティーニとビアレッジョ
▽B組(コンゴ、カタール、オーストラリア、メキシコ)がカラーラ
▽C組(スーダン、アラブ首長国連邦、ドイツ、ブラジル)がマッサ
▽D組(ガーナ、キューバ、ウルグアイ、スペイン)がリボルノ

 この各組上位2チームの準々決勝、準決勝、3位決定戦が前記の市で、決勝がトスカーナ州の州都でルネッサンスの“花の都”フィレンツェで――という展開になっていた。

 1985年からFIFA(国際サッカー連盟)が『16歳未満(U−16 )』で2年に一度、行なってきた『世界大会』を、年齢を1歳上げて『世界選手権』に格上げしたもの。ワールドカップなどと違って、アフリカ、アジア、ヨーロッパ、南米、中北米カリブ海の5地域からの代表は3チームずつ。これにオセアニア地域から1チームが加わる。
 85年大会の優勝はナイジェリア、2位西ドイツ、3位ブラジル、4位ギニア。
 87年大会は優勝ソ連、2位ナイジェリア、3位イタリア、4位ギニア。
 89年大会は優勝サウジ、2位スコットランド、3位ポルトガル、4位バーレーン。
 いわゆる後進地域の国々が上位を占めてきたのは、ヨーロッパの多くの国が就学年限(日本でいう中学生の年代)なのと、会期の6月は試験期(9月が新学期、新学年になるところが多い)といった事情もあったようで、今回の年齢引き上げが、どういう結果になるか注目されている。

 そうした背景の中でガーナの若者たちは、D組リーグを2−1キューバ、2−0ウルグアイ、1−1スペインと2勝1分け、得点5、失点2で同じ2勝1分け(得点9、失点3)のスペインに次いでグループ2位となってベスト8へ進出。準々決勝2−1ブラジルで準決勝へ勝ち上がった。
 ブラジルはC組で3勝、得点7、失点0と圧倒的な強さを見せた。特に対ドイツ戦で、相手DF4人をドリブルで突破し、ゴールキーパーもかわして得点したアドリアーノのスピードとテクニックは注目されていた。しかしガーナはニイ・ランプティ、ヤオウ・プレコ、イサク・アサーレのトリオを軸に、見事なテクニックでブラジルに対抗。カラーラでの試合は、この年代のチームとして特筆されるもの。大人のワールドカップに比べても、ボールコントロールの妙、見事なパス、DFのゴールカバー、そしてファインゴールと、サッカーの楽しみを満喫できた。
 前半、ガーナがランプティの18メートルのボレーシュートでリードすると、ブラジルはタバレスが47分に同点。しかし18分後、ガーナは左から攻めてクロスを送り、プレコがヘディングで後ろへ落とすのを、M.カルゴが目の覚めるようなシザースキック・ボレーで叩き込んだ。

 準決勝の相手はカタール。中東のこの産油国は1次リーグB組で1勝1分け1敗。アフリカのコンゴと0−0、メキシコに0−1、オーストラリアに1−0のスコアが示すとおり、厚い守りとカウンターに自信を持ち、準々決勝でもこの大会で台風の目となったアメリカ(A組1位)を1−1からPK戦(5−4)で破った。
 開催国イタリアやアルゼンチンを、ともに1−0で破り、中国に3−1で勝ったアメリカのパワーを食い止めたカタールのホセ・アビラ監督(ブラジル)は、当然ガーナに対しても、より徹底した守備重点策を取った。ガーナは数回のチャンスを生かせず、アビラ監督の狙いどおりPK戦となったが、ガーナのシュート力が優れ、4−2で退けた。

 フィレンツェでのファイナル・マッチ、相手は欧州チャンピオンのスペイン。すでにD組リーグで戦っている。彼らは準々決勝でドイツを3−1と破り、準決勝ではアルゼンチンを1−0で退けていた。
 スペインのファン・サン・セバスチャン監督は「1次リーグのときから決勝の相手はガーナと思った」と、最初の対戦で相手を高く評価していた。そしてゲームは、ガーナが攻め、スペインが後退して守りながらカウンターを見せる形が続く。この固い守りをあと4分のところで破ったのは、オポクのCKをダッシュして合わせたドウアのヘディング。相手DFがゴールライン上でクリアしようとしたが、彼がとらえたボールは前へ跳ね返らず、ゴールネットの天井にぶつかった。

 ガーナのタイトル獲得は、同国にとって初のビッグタイトル。1974年のFIFA会長就任以来、後進地域の実力向上を目標に掲げてきたアベランジェ会長にとっても、大きな喜びだったに違いない。FIFAニュースの91年9月号には、自らの名前でガーナの優勝を讃えている。
 1974年6月11日、西ドイツのフランクフルト・アム・マインでのFIFA総会でアベランジェ氏が会長選挙に勝ったとき、その公約であるアジア、アフリカなどのサッカー後進地のレベルアップのための計画実現や、ワールドカップ本大会参加国数の増加などについて語ったとき、ヨーロッパの記者たちの反応は決して好意的なものではなかったし、FIFA内部でも実現に疑いを持つ人も少なくなかった。
 以来17年、1982年からワールドカップは24チームとなり、FIFA主催の各大陸、各国での技術セミナーの開設、青少年育成事業などが進んだ。
 ワールドカップでは86年にモロッコが決勝ラウンドへ進出、90年にはカメルーンがベスト8と実績を重ね、今度のガーナの快挙となった。


(サッカーダイジェスト 1992年1月「蹴球その国・人・歩」)

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