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東京オリンピックで日本と対戦

 アフリカ大陸の西部、いわゆる西アフリカに属するガーナは、ギニア湾に面する海岸部と、後背地の草原・森林地帯は豊かな資源に恵まれ、古くから文化が発達したところ。  産出される金に目をつけたヨーロッパ人は“黄金海岸”(ゴールデン・コースト)と呼んで交易に往来し、またアラブ人たちも北方から砂漠を突っ切って、この地との取引に熱心だったという。
 第2次大戦後、1957年3月6日、英植民地内の独立国となり、サッカーの組織もガーナFAとなって、全国リーグも始まる。社会主義を掲げ、近代化を急ぐエンクルマの政策は、必ずしも成功とはいえないが、独立直後の意識高揚はサッカーにも表れた。1963年には早々とアフリカ選手権に参加するとともに、自国での開催に踏み切り、初優勝を遂げる。
 次の年の東京オリンピックにはアフリカ代表としてアラブ連合(エジプト)モロッコとともに参加。Dグループで、まずアルゼンチンと1−1の引き分け、次いで日本に3−2で勝ってベスト8に入ったが、準々決勝でアラブ連合に1−5で敗れた。

 日本代表は、その4年前のローマ五輪予選に敗退したときから東京を目指して強化を積み、西ドイツからデットマール・クラマー氏を招いて直接指導を受けるとともに、年間90日に及ぶ合宿、合同練習を続けた。

 このグループの第1戦は10月12日に三ツ沢で行なわれ、アルゼンチンが26分にリードすると、ガーナもアッカが同点とした。第2戦の日本対アルゼンチンは10月14日、小雨まじりの駒沢競技場。日本は12日の試合を十分偵察しておいたのと、衰えることのない気迫で前半にリードされたのを同点にし、さらに1−2とリードされてからも2−2、3−2と逆転した。
 アルゼンチンの1点目はドリブルで日本DFを抜いて決めたもの。2点目は、DFのミスを拾ったシュートからリバウンドを押し込んだ。日本の1点目は八重樫、杉山とわたってから杉山がドリブルシュート。2点目は釜本が左サイドから中へ送り、川淵のヘディング。3点目は川淵のシュートをGKがパンチしたところ、小城がよく詰めてゲットした。
 このアルゼンチン戦の勝利は、国際試合で“出ると負け”といわれていた日本サッカーに大きな自信を与え、ベスト8進出の望みを濃くした。もし日本がD組の首位になれば、準々決勝の相手はC組2位、日本が2位ならC組の首位、おそらくチェコと当たる。ぜひともガーナを倒してD組首位になっておきたいところだった。

 対戦は10月16日、日本は中1日、ガーナは中3日の休養だった。
 12分にパスをつないで八重樫のシュートから、そのリバウンドを杉山が決めて1−0とリード。ガーナのアギェマンのロングシュート(DFに当たって方向が変わる)で同点となったが、後半、杉山―八重樫で2−1とした。ここでもう1点加えれば、試合の流れは日本に大きく傾くところだッツアが、日本の動きが鈍り、ガーナはアッカがロングシュートから(イレギュラー)同点ゴールを奪うと、さらにアグレイ・ファンのシュートで3−2とひっくり返した。

 駒沢競技場でのこの試合、日本は第1戦の勝利で気分は高まっていたものの、やはり“ともかく1勝”のプレッシャーから解放されたのと、身体の疲れとで90分間、調子を持続できなかったように見えた。ガーナの選手たちは、話として聞いていた黒人特有の“器用さ”よりも、接触したときに、相手にやり難いだろうと思わせる“骨太さ”や“力強さ”を感じたものだ。
 ガーナは日本に勝ち、望みどおり準々決勝をチェコではなく、2位のアラブ連合と当たった。ところが、互角以上にガーナがいけると思っていたこの試合、肌寒い雨が降り、グラウンド・コンディションも悪い。ガーナのショートパスは通りにくくなって、攻める割には点が取れず、ロングパスに切り替えても中央攻撃一本で、意外な大差(1−5)で敗れてしまった。

 この大会では準々決勝の敗者が関西に移ってFIFAによる5〜8位決定戦に出場することになっていて、ガーナも日本(チェコに敗退)とともに大阪トーナメントに参加した。日本はすでに精力を使い果たしており、強力なユーゴに1−6で大敗したが、ガーナは西京極での対ルーマニア戦で、敗れはした(2−4)が前半なかばまで2−2のシーソーゲームを演じて関西のファンを喜ばせた。

 東京に次いでメキシコ・オリンピックにもガーナはアフリカ代表の地位を保つ。メキシコでは日本の銅メダルが光って、オリンピックのメダル戦争はアジアがアフリカに一歩先んじた形となったが、ガーナの1次リーグの相手は東欧ナンバーワンのハンガリー、アジア最強のイスラエルと中米エルサルバドル。ここからベスト8へ進むのは、難しいことだった。

 ガーナは1960年代半ばから70年代の半ばにかけて、アフリカを代表するサッカー国となり、オリンピックには3回連続出場。76年モントリオール大会直前にアフリカ代表が参加を取りやめなければ、4回連続出場となるはずだった。
 こうしたアフリカのトップクラスの伝統は、70年代後半からしばらく停滞するが、ここしばらくは若く優秀なプレーヤーの輩出で、ガーナのサッカーが再び注目されるようになった。


(サッカーダイジェスト 1992年1月「蹴球その国・人・歩」)

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