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アラン・ジレス「わたしのサッカーが、フランスのサッカーだ!!」


 第2戦(1月15日、神戸市総合運動公園)での完敗で、ボルドーの印象はいささか薄れたように見えるが、一つのチームには人生と同様に、よい日もあれば悪い日もある。
 日本での彼らの2試合は決して「よい日」でなかったとしても、そのなかで彼らが示した技術的なよさ、パスとドリブルの見事な組合せは、ここしばらくのフランス代表チームと同じ流れにあって、わたしには好ましいものだった。
 そのボルドーの主将“ナポレオン”アラン・ジレスにインタビューのチャンスを得た。第1戦(1月12日)の試合の夜、時間は長くはなかったが、フランス語の上手なラガーマンの通訳・酒井哲郎氏の応援を得て話は大いに弾んだ。対談のなかで、彼の真面目で謙虚で、ちょっぴりイキな人柄が出ていれば幸いなことだ。


フランスでは、美しく、面白くなければ、ファンはゲームを見に来てくれない

賀川:フランスではあなたのことをナポレオンと呼んでいるそうですが、そのニックネームをどう思いますか?

ジレス:たしかにそう呼ばれています。オンズ(フランス語の11)という雑誌の要請でナポレオンの服装をして写真を撮ったことがあります。どこが似ているかというと、やはり本物のナポレオンも体が小さかったこと、ボクがボルドーのキャプテンであるということ、ただそれだけだと思います。

賀川:なるほど。

ジレス:こんなことはやったこともない(ナポレオンの肖像画によくあるサスペンダーに親指をかけるポーズをして見せて)。

賀川:ナポレオンほど腹は出ていないしネ。

ジレス:ノン(と言って机をさわる)=自分がそうなりたくない話が出たとき(つまり腹が出るのは困る)そうならないために縁起をかついで木にさわるのが彼のクセ。

賀川:あなたのプレーの特徴は?

ジレス:まず、わたしのサッカーはフランスのサッカーだということです。フランスのサッカーは美的なもの、スペクタクルなものが強調されます。というのは、フランスのファンを集めるためにもそういう試合をしなければなりません。ドイツだったら国際試合には愛国心というのか民族意識というのか、それだけでたくさんの観衆がスタジアムを埋めるでしょう。
 しかしフランスではそれだけではダメで、美しく、面白くなければファンは見に来てくれません。ファンに来てもらうためにもスペクタクルでなければなりません。そしてまた近頃では、美しくスペクタクルであるだけでなく、よい結果を生むこと、試合に勝つことも、また大切と考えられるようになりました。
 わたしのプレーも、だから、技術的で、上手なボール扱いをすること、判断をよくすること、その判断がすぐ体やプレーに表れることを心がけてきました。

(彼は、西ドイツのほかにイタリアやスペインにもふれていた。地方の対抗意識の強いイタリアやスペインでは、たとえばトリノとミラノというだけで、あるいはバルセロナとマドリッドという対抗意識で、ファンはスタジアムに集まり、まず勝つことを要求する。相手方を蹴飛ばしてでも勝った方がいいわけだが、ジレスによると、フランスのファンには、美しいサッカーを見せなければならないし、面白いサッカー、意外性のあるパスとか見事な連係プレーとか、個人技とかがなければ、守り一辺倒で引き分けても喜ばないらしい。ボルドーのクエク・マネジャーによると、地方によって、多少、チームの性格は違うが、やはりフランス人は美的要素を大切にするとか)

賀川:あなたの経歴を見るとボルドーの少年チームに入ったのは12歳からとなっているが、それ以前はどんな遊びをしていたのですか?

ジレス:いまは7歳からクラブへ入れるのだが、わたしの子どもの頃は12歳から入ったものです。わたしが育ったのはボルドー近くの小さな町で、そこにはクラブがなかったので、ボルドーのクラブに入るまでは小学校でプレーしたり、ストリートサッカーをしたりしていました。

賀川:育ったのはランゴワランでしたネ。

ジレス:そう、ボルドーの南東20キロほどにあります。いまでも、そこに家族と住んでいます。


両雄並び立ち、プラティニはジレスと一緒の方が、プレーがやり易くなった

賀川:17歳でプロの一軍に入ったとのことですが、その頃、体が小さいからプロには向かない、というようなことをコーチや役員から言われなかったでしょうか。イングランドのケビン・キーガンやイタリアのコンティなどには、そういった話を聞きました。

ジレス:あれは18歳からです。そう、82年のワールドカップで世界中に知られてから、「体が小さい」という点の質問を、どこへ行っても受けるのですが、わたしは自分が小さいからサッカーをするのに向いていないと考えたことは一度もありません。82年以前からもプロフェッショナルとしてやってきたが問題はなかった。もしフランス代表に選ばれていなかったら、「体が小さいことがハンデ」という声も出たかもしれませんが、わたしは、それについて考えていたことはありません。

賀川:わたしも体が小さくてネ……。ある時期に、短い足のほうが、大きな人の長い足よりも、早く蹴れるのだと気がついてから、体の小さいのをハンデと思わなくなりました。

ジレス:そのとおりです。わたしは、大きい人を相手にプレーするのが好きなんです。

賀川:同じくらいのがくるとかえってやりにくいでしょう(笑)。

ジレス:そうです(笑)。たしかに、ステップとか、体の早さなどが、同質なので、やりにくいものです。

賀川:子どものときから何人かのコーチの指導を受けたようですが、強く影響を受けたのは?

ジレス:ボルドーのクラブに入ってからも、自分のやりたいようにプレーしてきました。コーチから、何か押しつけられたと、いうことはありません。

賀川:フランスではコーチはプレーヤーのやりたいようにやらせるのですか?

ジレス:フランス代表チームを例にとってお話しすると、イダルゴ監督、ご存じですネ。彼は、自分がこういう方針でやりたい、というのではなく、集まった選手をもとにしたチームづくりをします。

賀川:プレーヤーの個性によってチームができるというわけ?

ジレス:代表チームのミッドフィルダーでプラティニがいるでしょう。わたしと彼とが、いわば同じようなポストで試合をするということで問題になると心配されたのですが、イダルゴ監督は、よく働ける方、よくやる方をとると決めた。実際には二人で一緒にやって、同じようにうまくできたのですが……。

賀川:西ドイツなどでは、二人のリーダーはいらない、などという論争がありましたね。わたしは、1984年のヨーロッパ選手権で、優れたリーダーであるあなた方二人が、実にうまく協調していたのに驚きました。

ジレス:1974年のワールドカップのときの西ドイツ代表チームでのネッツァーかオベラーツかの話は聞いています。わたしたち二人も、はじめ、プラティニは、一緒にプレーするのに賛成じゃなかった。色々な話をして、やってみようということになり、やってみたら、うまくいった。プラティニは、いまでは、わたしと一緒の方がいいと言っている。

(ネッツァーとオベラーツのどちらが中盤のリーダーかを、西ドイツでは監督が決めなければならなかったが、ジレスかプラティニかは、今度のフランス代表チームは二人のプレーヤーの間で決めた、という感じに受け取れた。ジレスはアタッキングMFとなり、プラティニもそうだが、よりストライカー的な役割を果たすことで、二人とも成功し、チームの優勝に貢献した)

賀川:あなたのプレーは周囲の状況をよく見ている点が、素晴らしいが、これは若い頃からでしょうか。

ジレス:これは練習してできるものではないと思う。ジャンプや速く走るということはトレーニングでよくなるけれど、状況判断というのは天性のものでしょう。わたしは、ボールが来る前にどこに味方がいるかが分かるから、パスをうまく渡せるのです。
後方の敵を見る工夫? 特に工夫をしたわけではないが、そこにプラティニがいるということは分かる。敵がこちらから来るな、というのは気配で分かる。

賀川:あなたは右も左も、いまは、上手にボールを蹴るが、若い頃、14、15歳頃はどうでした。

ジレス:その頃は右だけでしたネ。左でちゃんと蹴れるように、壁に向かってよく練習しました。すぐには上手にはならなかったが、試合でも、左へ来たときは左を使うように心がけ、だんだん上手になった。

賀川:フリーキックがとても上手だが……。

ジレス:人形を立てて練習するんです。ナントのユニフォームを着せてネ(ナントは現在リーグ2位のライバル)。はじめは、うまくいきませんが、何回も繰り返すことで、人形の壁を越えて、シュートが決まるようになります。一つの位置から決まってくると、今度はどの位置からでも、うまく蹴れるようになる。蹴るのは、ほとんど右のインサイドです。

賀川:日本との第1戦では低いライナーのでしたネ。

ジレス:ペナルティエリア右角の位置だったし、日本の壁のつくり方とゴールを見たときに、一直線にコースが見えたのでこれでやろうと思った。インステップのアウトサイドでした。


日本のファッションは進歩!「妻はケンゾー(高田賢三)のデザインしか買わない」

賀川:若いときに比べて、いまのプレーで変わったことは?

ジレス:若いときに試合によって調子のムラがあったが、いまは、どの試合も同じようにやれるようになった。自分のコントロールもできるし、試合前も試合中もイライラしなくなってきた。自分のできるプレー、できないプレーも、はっきり見分けられるようになった。

賀川:試合前に興奮してあがってしまうということも……。

ジレス:試合に集中していればあがることもない。若い選手はスタジアムが満員だったりすると、それだけでもプレッシャーがかかる。また相手側の観客によってプレッシャーもかかる。

賀川:あなたは縁起をかつぐ方ですか。ジンクスは?

ジレス:長くやっているとジンクスも実際に、あまり役に立たないことが分かってきた。しかし、ないことはない。スペイン・ワールドカップのときにビルバオでフランスがイングランドに負けたときの靴は二度と使っていない。

賀川:好きな色は?

ジレス:日本では色について特別重要なことがあるのでしょうか?

賀川:いや、むしろフランスはファッションの国、色の好みも大切だろうと思って……。

ジレス:日本もいまやファッションが進んでいる。ケンゾー(高田賢三)は素晴らしくて、わたしの妻はケンゾーのデザインしか買いません。でも、色については、特に好きなのはなくて青も白も赤も好きです(つまりトリコロール3色)。

賀川:音楽は?

ジレス:ロックなどは好きでなく、静かな曲がいい。まあ、わたしの耳に快く響くものですネ。

賀川:ケビン・キーガンは歌をレコーディングしたが、あなたは?

ジレス:歌いたいが、声が悪いからダメですヨ。足には天分はあるけれど、歌は(天分が)ありませんネ。

賀川:サッカー以外で趣味は何でしょう。

ジレス:特別に趣味はないんです。試合や練習のないときは、子どもたちと遊んだり、庭の手入れをしたりするくらいです。

賀川:庭は大きいのですか?

ジレス:先にお話ししたボルドー郊外の田舎の家ですから。1ヘクタール(1万平方メートル、3千坪)あります。ガロンヌ河を見下ろす丘の上にあるのです。ブドウ畑がつづくところで、自然の中です。

賀川:そんないいところに住めば、他に遊びはいりませんね。

ジレス:わたしは都会の人間でなく、田舎向きなんです。

賀川:お子さんは、男が二人でしたね? フットボールをやるんでしょう。

ジレス:7歳と3歳。二人とも家でボールを蹴っています。スポーツを勧めたいが、特に私からサッカーをやれとは言っていません。もし子どもたちがサッカーを始めれば、すぐ世間は親のわたしと比較するでしょう。それが子どもたちの伸びるのを妨げないかと、懸念もします。

賀川:100メートルのタイムは?

ジレス:計測したことはありません。小さいときから、足は速い方でした。学校のとき、60メートル競走では一番でした。60メートルを過ぎるとスピードが落ちた。やはりパワーがなかったのでしょう。


サッカーなしでは暮らせない。引退したら子どもを教えたり、OBチームでプレーを楽しむ

賀川:これまで一番印象に残っている試合、嬉しかった試合は?

ジレス:82年のワールドカップのすべての試合、セビリア(準決勝、対西ドイツ)は特に強く印象に残っています。しかし、これは悲しい思い出でもあります。1983−84シーズンのフランス選手権(リーグ)に優勝したこと。さらに、昨年の欧州選手権の全試合ですネ。

賀川:いくつまでプロでプレーをするつもりですか?

ジレス:気持ちとしては、60歳(笑)。しかし足がついてゆかないでしょう。ボルドーで86年まで、ナショナルチームも86年まで続けたい。ボルドーでもしやれれば、もう1、2年くらいかナ。いずれにしても、やめる時期を決めるのは難しいね。そのあとは新しい別の生活に入らねばならない。それも難しいことです。

賀川:コーチになるのは?

ジレス:コーチの資格を取るつもりで、そのテストも受けるつもりです。しかし、プロのコーチという職業は試合の成績に左右される大変なものです。まあ、ビックリ箱の上に座っていて、いつ、下からポンと上へ放り上げられるか分かりません。
 しかし、どんな仕事に就いても、わたしはサッカーなしでは暮らせないから、子どもを教えたり、OBのチームに入って楽しむことになるでしょう。

賀川:あなたは大きなケガをしたことはないようですネ。

ジレス:(机に手を当てて、おまじないをする)将来もしないように祈りたいが……。わたしは、捻挫やスリ傷はあったが、骨折などの大きなケガ、手術を必要としたケガはしたことがない。

賀川:幸運の他に、何か心がけていたことは?

ジレス:たしかに幸運だったでしょう。まあ、心がけてきたことといえば、節制をし、食事をキチンととり、睡眠を充分にとって、いつもよいコンディションで試合をしようと努めてきたのですが……。


1986年まではボルドーでも代表でもプレー。メキシコまではプラティニと一緒

賀川:自分の不得手なプレーはありますか?

ジレス:自分はディフェンスが好きじゃない。ボールを持って攻めるのは好きだが、相手のボールを奪ったり、守りに入ったりするのは好きじゃないんです。

賀川:フランスの選手は、その傾向が強いように見えます。

ジレス:全員そうです(笑)。しかし、サッカーは、それではいけないので、ディフェンスをやるようになったのです。82年ワールドカップの準決勝で西ドイツに延長戦で引き分けPK戦で負けたのも、薬になりました。そして84年の欧州選手権にはディフェンスにも気を付けました。

賀川:あのときの対ベルギー戦で、先取点を挙げてから、実にうまいディフェンシブプレーを見せましたネ。

ジレス:ベルギーは守っておいてカウンターで点を取るやり方です。それに対してフランスがはじまってすぐ、プラティニがゴールを決めたので、ベルギーがボールを持つと、こちらは後退して守り、相手が攻めてこなければいけないようにした。意識的にやったのです。あの試合くらいすべてがうまくいったこと、すること、なすこと、うまくいったのは初めてでした。何十試合に一回あるかないかという試合でしたネ。だから試合のあとも、とても気分がよく、またいつまでも、あのときのことを覚えていますヨ。

賀川:だから、試合のあとであなたは更衣室の前でファンにせがまれて、何度もカメラに納まっていた。そんなスケッチ写真を、わたしは写しましたヨ。

ジレス:ええ、来ていたのですか。本当に楽しい試合でした。

賀川:あなたの仲間のティガナについて話して下さい。

ジレス:彼は、わたしのないところを補ってくれるいい仲間です。彼は細かいテクニックも上手だし、パワーもあるが、それらを使ってボールを奪うことの上手なのに驚きます。そしてまた、スピードを生かしたドリブルは素晴らしい。ミッドフィルダーのディフェンスでは彼は一番いい選手だと思います。

賀川:日本チームの攻撃もよく彼にひっかかってボールを奪われた。

ジレス:それが彼のクオリティです。彼はあれだけ上手なのに、それほど自分で点を取ることに執着しない。ただし、点を取るためのパスを出すこと、チャンスをつくるのは、とても上手だ。

賀川:イダルゴ監督について?

ジレス:フランス・サッカーについて、代表選手の一人一人について、とてもよく知っていて、代表チーム監督としては申し分なかった。

賀川:代表チーム監督がアンリ・ミシェルに代わり、イダルゴさんは技術委員長になったが、ナショナル・チームは変わるだろうか?

ジレス:アンリ・ミシェルの考えはイダルゴとも違うだろうから、変わると思う。しかし、いまのところは、選手も変わっていないし、したがって試合のやり方も同じです。わたしも、彼と話し合って86年のワールドカップまで代表チームでプレーするよう言われたし、またプラティニも、わたしに86年まで一緒にやってくれと言っている。

賀川:日本のプレーヤーへのアドバイスは?

ジレス:日本へ来てから体格のことをよく聞かれたが、体の大きさはあまり考える必要はないと思います。もちろん、チームのなかには大きな選手も必要ですが、GKやバックそしてアタック一人くらいはいるでしょう。しかし、大切なのはチームプレーをよくして、それぞれがテクニックを発揮すればよいのです。
 試合をした日本チームは決して体格で我々と変わりません。ジャンプ力もあるからいいと思います。
 わたしの見たところでは、彼らの持っているテクニックに比べてスピードを上げすぎる(技術にあったスピードではないということ)。もう少し抑えるべきところを抑えた方がよいと思う。


(サッカーマガジン 1985年4月号)

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