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友人の遺志を継ぎ、停滞期の日本サッカーのなかで赤字体質を改革。第5代JFA会長 平井富三郎(上)

官、経済界のトップとして

 5月号から3回にわたって、1930年(昭和5年)の日本代表GKであり、昭和初期の関西学院黄金期のGKであった斎藤才三さんを紹介しました。今回はその斎藤さんとほぼ同じ“昭和5年世代”の平井富三郎さん(1906〜2003年)、第5代日本サッカー協会(JFA)会長(76〜87年在任)です。

 平井さんといえば、通商産業省(現・経済産業省)事務次官、新日本製鐵株式会社代表取締役社長、日本銀行政策委員会委員――といった経歴の示すとおり、46歳で通産省でお役人の最高のポストの事務次官になったあと、49歳で八幡製鉄所に転じ、やがて会社合併によって生まれた新日鐵の副社長、さらには社長を務めて、官界、経済界のトップとして知られた人。
 JFA会長に就任したのは76年、69歳のとき。新日鐵の相談役となってからだが、日銀の政策委員をはじめ、各種の経済団体の役員でもあった。この財界トップの平井さんがJFAの運営の責任者となったのは、学生時代からの友人であった篠島秀雄さん(1910〜1975年)の願いに応えたものだった。

 平井さんは1906年(明治39年)12月13日生まれ。家業は神田・神楽坂の足袋屋というから、まずチャキチャキの江戸っ子。旧制の東京高等学校に学び、31年に東大を卒業した。
 篠島さんとは、その高等学校時代からの付き合い。平井さん自身の回想によると「大正14年以来、50年来の交遊」であったという。篠島さんは第9回極東大会の日本代表であり、東大の黄金時代の名FW。旧制高校のときからすでにインターハイなどでも有名選手だった。平井さんが大学を卒業して、商工省(後の通産省)に入り、当時、官営であった八幡製鉄所に赴任した、ころ篠島さんも三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の飯塚岩鉱勤務で、そのころから付き合いが深まった。2人の軍隊生活で途絶えたが、大戦後再び、北九州で交遊が復活、親交は篠島さんが三菱化成工業(現・三菱化学)の社長、平井さんが新日鐵の社長という大会社のトップになっても続いていた。
 代表選手であった篠島さんは、64年の東京オリンピックのときにはJFA理事長として、それ以後は副会長として、野津謙第4代会長を助けて日本サッカーの急成長をリードした。第5代会長は篠島さん――と多くの人が考えたのは当然だったが、自らの病の推移を見て、篠島さんは信頼のおける友人、平井さんにJFAを託して、75年2月11日に去った。


JFAの財政改革

 平井さんが会長に就任した1976年(昭和51年)ごろのJFAは代表チーム国際試合での不振と当時のトップリーグ、JSL(日本サッカーリーグ)の人気低迷で財政的にも苦しく、慢性的赤字体質でもあった。
 新会長の下、協会幹部の若返りを図り、長沼健(のちの第8代会長、1930〜2008年)が新しい専務理事となった。46歳、メキシコ・オリンピックの銅メダル監督であり、JSLという企業チームのトップリーグのスタートに成功した長沼さんが、JFA大改革の実務を担うこととなった。
 その大仕事をバックアップした平井さんがまず強調したのは、「会議を時間どおり始めて、効率よくすること」だった。月例の理事会を木曜日に決めると、毎回、時間どおりに出席した。「サッカーについては知らないから、代表チームの成績などには何も言わないが、協会の経理、財政に不明確なところがあってはいけない」とも言った。

 今にして思えば、JFAのこのときの財政改革の第一歩は、平井さんがまず専務理事の長沼さんの心をつかみ、自らもまた長沼さんを信頼したことだろう。
 サッカーのプレーヤーで監督で、こと技術、そしてその指導に関してプロフェッショナル顔負けの技術と知識と経験を持つ長沼さんが、大会社のトップを間近に見て経営の心得を実地に学んだことは、この人のためにも、JFAのためにも素晴らしいことだった。会長就任の次の年は財政改革の見とおしがついた。


(月刊グラン2009年8月号 No.185)

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