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釜本邦茂(11)名門アーセナルのお株を奪う「アーセナル・ゴール」。メキシコ五輪へ着々と

 1968年4月14日、第3回日本サッカーリーグ(JSL)の開幕戦で、私たちは釜本邦茂の新しい姿を見た。次の日に満24歳の誕生日を迎える逸材が、西ドイツでの2ヶ月の単身留学で、明らかなステップアップを遂げたのを見たのだ。
 3月下旬から4月上旬にメキシコ、オーストラリア、香港で行なわれた日本代表の5試合に参加した釜本は、各地で高い評価を受けた。
 特に、セミプロ化が進み、東南アジア各国を相手に好成績を挙げているオーストラリアでは、70年のメキシコ・ワールドカップのアジア予選で日本と同じグループに入っているだけに関心も高く、釜本についての報道も多かった。当時の雑誌に掲載された現地のニュースを見てみると、“KAMIKAZE”KAMAMOTOなどの見出しもあり、第2戦では釜本用にスイーパーを配して彼を抑えながら、第3戦では彼に2ゴールを奪われて1−3で敗れたのがショックだったらしい。「70年の予選までにオーストラリアは改良しなければならない」と報じた新聞もあった。
 その頃の日本の目標は、まずは68年メキシコ・オリンピックだったが……。

 この年のJSLの前期でヤンマーは常勝・東洋工業を3−1で破り、杉山隆一を擁する三菱重工に2−1で勝利を収めるなど、7戦4勝2分け1敗の3位。釜本自身は8得点を挙げただけでなく、ドリブル突破やパスで好機を生み出した。
 5月19日の第4節と6月1日の第5節の間に、日本代表はイングランドからアーセナルを迎えて3試合を行なった。1886年創立のロンドンの名門クラブは、今もプレミアシップのビッグ4の一つとして知られているが、戦前からの日本のファンにも憧れのチームだった。
 60年代に入ってからは、リーグ戦だけでなくFAカップの優勝からも遠ざかっていたアーセナルは、バーティ・ミー監督の就任とともに、再び栄光を目指して強化に努めていた。日本遠征後の70−71シーズンにリーグ戦とFAカップで2冠を果たすのだが、その上げ潮に向かう名門を相手に釜本は歴史に残る名場面を演じた。

 5月23日、夜の国立競技場。アーセナルとの第1戦は、彼らの開始15秒の先制ゴールで始まった。外国へやってきて、未知の相手との試合となれば初めは様子をうかがうところが多いが、アーセナルはまことにイングランド・スタイル。キックオフから前掛かりとなり、日本が釜本から八重樫茂生、そして小城得達へとボールを戻した瞬間に、ボビー・ゴールドがボールを奪い、ドリブルで突破する。一旦、鎌田光夫のタックルで止めるが、そのこぼれを再びゴールドが拾い、後方のジョン・ラドフォードとのパス交換からシュートを決めてしまった。その速さ、その迫力に3万8439人の観客は呆然、やがて、ニッポンを激励する声が沸き起こった。

 8分後に日本は右サイドの展開から同点ゴールをもぎ取る。右サイドの深い位置から出た八重樫の縦パスを受けた渡辺正が、中央へクロスを送る。2人のDFがヘディングしようとしたが、釜本が飛び込んでダイビングヘッド。GKボブ・ウィルソンは防ぐことができず、ボールはネットを揺らした。
 このニアサイドに飛び込んでのヘディングは、アーセナルをはじめ、イングランドサッカーの流儀と知られていた。
 釜本はこれまで、こうしたニアへの飛び込みよりも、ボールの落下地点の見極めのうまさで、相手より先に有利なポジションに入り、良い姿勢のジャンプでのヘディングが多かった。
 渡辺の早いタイミングのクロスと釜本の動きがピタリと合ったのだが、渡辺自身ものちに「ガマッチョ(釜本)が初めてニアへ飛び込んだ」と喜んだ。

 アーセナルの強く激しいプレーに触発されたのかもしれないが、このときの連続写真を見ると、飛び込んで、頭に当てて、地面へ落下した釜本が、地面に落ちた姿勢でなお、ボールをしっかり目で追っているのを見ることができる。
 しっかり基本を身につけた釜本が、西ドイツでの単身トレーニングでレベルアップし、それがアーセナルという“天下”のプロフェッショナルを相手に発揮されたということだろう。
 アーセナルとの3連戦は3連敗。残りの2試合では釜本自身も無得点に終わったが、世界の一流クラブを相手に奪ったゴールは、日本にも彼自身にも大きな自信となる。

 10月のオリンピック本大会を目指す日本代表は7月13日に日本を発ち、ソ連、ヨーロッパへ遠征に出向いて、8月17日の帰国まで、各地を転戦した。強敵ばかりと対戦した遠征は1勝8敗という成績に終わった。釜本も右足の痛みを抱えていて全試合フル出場とはいかなかったが、それでも合計7得点を記録している。


(週刊サッカーマガジン 2009年1月20日号)

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