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【番外編】平木隆三さんを偲ぶ 東京、メキシコの栄光を支え、コーチ育成組織をつくり、天皇杯を改革し、発展の基礎を築いた

「大迫勇也を見ましたか?」。サッカーマガジンの国吉好弘さんから電話があった。高校選手権の準々決勝で滝川二(兵庫)を6−2で破った鹿児島城西のストライカーだという。
 ちょうどこの日、1月5日は体調が悪く、その試合のテレビを見損なったが、“ドクター国吉”の推奨だからと、新聞などを読み返すと、とても評判が良い。身長182cmと上背もそこそこあり、右利きで、左も蹴れるようだ。ドリブルが上手(ストライカーの条件の一つ)だし、反転もできる。6日付の朝日新聞に掲載された右足シュートの写真を見ると、インパクトの後も、目でしっかりボールを追っているようにみえる。準決勝以降のテレビが楽しみである。

“心に残るストライカー”の連載を担う者として新年早々に、若くて良い素材の話ができるのはまことに嬉しいことでもある。しかし、この号は、その連載の釜本邦茂シリーズからも離れて、番外編で、故・平木隆三さんについて――とさせて頂きたい。

 1月2日に亡くなった“ペラさん”こと平木隆三さんの葬儀が5日、「愛知県豊明市栄町南館、高徳院愛昇殿」で行なわれた。
 東京オリンピック(1964年)日本代表チーム主将、メキシコ・オリンピック(68年)代表コーチ、第1回FIFAコーチングスクール・コーチ(69年、検見川)日本サッカー協会(JFA)技術委員長など、サッカーの技術指導の現場で長らく働き、また、天皇杯の変革(72年)年齢別選手登録制度の実施(78年)と今日の発展につながる基礎的な大仕事でも実績を残した。Jリーグのスタートのとき、請われて名古屋の初代監督(91−93年)を務めた。

 JFAの岡野俊一郎最高顧問、川淵三郎名誉会長をはじめ、300人の会葬者が、77年の生涯をサッカーに捧げた、この人との別れを惜しんだ。岡野さんの弔辞があり、デットマール・クラマーからの追悼の言葉が披露され、釜本邦茂、横山謙三、森孝慈、鎌田光夫、山口芳忠ら東京、メキシコの仲間が棺を担いだ。加茂周、石井義信、岡田武史といった歴代日本代表監督をはじめ、技術指導者、コーチたちの顔も多かった――と聞いた。

“老兵は消え去るのみ”と言うが、良い選手は私たちに素晴らしい思い出を残してくれる――とは、イングランドの大記者ブライアン・グランビルの言葉だが、平木さんはコーチ、監督、技術指導の面だけでなく、私には「フォームがきれいで、バネがあり、技術を持つ努力家」という、関学、古河電工、日本代表で選手だった時代の印象が強い。
 あのデットマール・クラマーが、長沼健、岡野俊一郎という指導者(リーダー)ペアに着目するとともに、平木さんを常に手放さなかったのも、その資質を見込んでのことだった。健さん(長沼)と俊さん(岡野)のコンビに影のごとく寄り添い、現場の仕事を引き受けることで東京、メキシコの栄光を生む力となった“東京”では若い選手たちの体調に気配りし、“メキシコ”では相手チームの偵察(スカウティング)で働いた。
 メキシコの栄光の後、しばらく停滞の時期が続いたが、その間にもこの人の技術指導への情熱は止まることはなく、また、JFAの内政面でも、健さん(長沼専務理事)を助けて働いた。

 あれは78年だったか、セルジオ越後が「さわやかサッカー教室」を始めるとき、越後が当時のJFAのコーチ資格を持っていないというので、コーチ会議の一部から反対論が出たときも、技術委員長だった平木さんは、彼の少年指導の能力を生かすことが大切と考え、「特別認定コーチ」という例外措置で、さわやか教室を認めた。この教室が、日本全土に与えた影響を見れば、平木委員長の例外措置の確かさが知れる。

 協会の全チームが、その年のナンバーワンを争う天皇杯がいまの形になったのは72年からだが、本家イングランドでいう「もっとも民主的なイベント」を日本に植えつける努力は大変だった。イングランドのルールの再勉強から始まり、地域協会、県議会との連絡、協議はまことに労の多いことだったが、この人の人柄と推進力が多くの人の協力を得た。
 天皇杯決勝に一人でも多くの観客をと、2人のお嬢さんともども、明治神宮の参列者へビラ配りに出かけたこともある。
 その天皇杯決勝、今年は関西のガンバ大阪と地味な印象の柏レイソルの対戦にスタジアムは満員、まことに好ゲームだった。
 2日といえば、健さんが亡くなったのも2008年6月2日だった。
「『長沼さんがちゃんとして待っていて下さいますよ』と言うと、二コリと笑いました。それが最後でした」とは、ハナ子夫人の言葉。
 向こう岸で、また良いチームができることだろう。


(週刊サッカーマガジン 2009年1月27日号)

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