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釜本邦茂(12)オデッサでの35mシュート、ボルシア・MGからもゴール。進歩の証を重ねてメキシコへ

 平木隆三さんの追悼と、高校選手権で評判の大迫勇也選手への期待で、二つの番外編を挟みました。
 今回から釜本邦茂シリーズに戻りますが、その大迫が釜本のように国際舞台で実績を上げるストライカーになれるかどうかは、これからの積み上げによると、誰もが指摘します。
 鹿島というレベルの高いクラブに入ってから彼がどのように伸びるのか、そしてまた、クラブや日本代表の先輩や仲間が、この素材の進歩を助けることを願っています。

 さて、釜本邦茂について。これまでの11回の連載で、彼の高校時代から早大を経て、ヤンマーディーゼル(日本サッカーリーグ)入りする過程を述べた。早大では関東大学リーグの得点王に4年連続で輝き、1964年、20歳のときに東京オリンピックに出場。66年の第5回アジア大会では7試合で6得点を挙げて、日本の3位に貢献。メキシコ・オリンピックのアジア予選(67年10月、東京)でも5試合で11得点を挙げて予選突破へ導いたことを紹介した。そして、68年1月13日の西ドイツへの短期留学で、大変革を遂げ、68年の前年は2年目の日本サッカーリーグと対外試合で自らの進歩を強く印象付けたことなど、20歳の東京オリンピックから24歳のメキシコ・オリンピックに至る成長の歩みを書き込んできた。

 その“メキシコ”を2ヶ月後に控えた68年8月18日、ヨーロッパ遠征強化試合から帰国した釜本を大阪国際空港(伊丹)に迎えに行った。合宿所までの車の中で、同じ遠征メンバーの湯口栄蔵(ヤンマー、メキシコ・オリンピック代表、故人)が、「遠征の第3試合で釜本さんが、すごいロングシュートを決めましたよ」と語るのを聞いた。
 7月13日に羽田を出た日本代表は、8月17日の帰国まで、ソ連、チェコ、オランダ、西ドイツで合計9試合を行なった。相手はロシア共和国選抜や、クラブチーム、チェコ・オリンピック代表や西ドイツのブンデスリーガ1部の強豪ボルシア・メンヘングラッドバッハなどがあって、成績は9戦1勝8敗と負けが多かった。守備陣のリーダー鎌田光夫を故障で欠いていたこと、釜本自身が左足故障で初めのうち本調子でなかったこともあるが、そうした苦しい条件の中での、“武者修行”がオリンピック本番の好結果につながったといえる。釜本は遠征後半になってから、ようやくフルタイム出場して合計7試合で7得点を記録した。
 そのうち一つが湯口の言う、すごいシュートだった。

 試合は7月24日、ソ連のオデッサ市でのチェルノモレッツ戦(1−2)の後半28分に、はーふウェーライン近くでボールを拾った釜本がドリブル、35mの距離からシュートして、ゴール右上に突き刺した。そのビューティフル・ゴールに3万人の観衆がどよめいたという。湯口のこの話は、後に、“メキシコ”で第1戦のナイジェリア戦(3−1)での彼のハットトリックとなる3点目のロングシュートにつながるものとして、長く頭の中に残っていたのだが、昨年、寺尾皖次(てらお・かんじ)さんのおかげで、このシュートシーンの映像を見ることができた。テレビ東京のプロデューサーであった寺尾さんは、この遠征に同行して、現地で映像を入手していた。貴重な映像はモノクロで、鮮明度はまずまず。釜本がドリブルして、右足のシュートへ入って行くところを見事に捉えている。“強蹴”というよりも、自然に足を振ったという感じで、バックスイングからインパクト、そしてフォロースルーと、一連の体の動きの美しさを見ることができた。

 遠征第8戦で日本代表は西ドイツのボルシア・メンヘングラッドバッハと対戦した。68年のブンデスリーガ3位、ギュンター・ネッツァーやベルティ・フォクツといったスーパースターを擁する(フォクツは日本戦欠場)この強豪チームには4点を取られたが、釜本は松本育夫の右からのクロスをワントラップ・シュートして1ゴールを挙げている。
 この年、2月のザールブリュッケン留学以降の彼の変貌は半年間の実戦で明らかになり、日本代表の大きな力となっていた。

 9月22日、羽田を経ち、ロサンゼルス経由でメキシコに向かう代表チームを見送りに行った私が、杉山隆一と宮本輝紀の二人と空港レストランでお茶を飲みながら、「釜本だけでなく、君たちにも得点を期待している」と言ったとき、リュウ坊(杉山)は真顔で言った。「ガマの今の得点力はずば抜けている。私はパスを出す役に徹しますよ」と――。


(週刊サッカーマガジン 2009年2月10日号)

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