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釜本邦茂(13)メキシコ五輪B組第1戦、ナイジェリアを相手にハットトリック
アジアカップ最終予選、対バーレーン(マナマ)は0−1の敗戦だった。バーレーンとはこれまでも「勝ったり負けたり」、際どい勝負だったから驚くことはない。大事なのは戦ったプレーヤーが、このクラスを相手に「勝ったり、分けたり」でいけるチームをつくるにはどうするか、また自分たち一人ひとりの技や強さをどのレベルに上げるか――を考え、練習を重ねて実力を高めることだろう。
さて、表題の“ストライカー”、先号で釜本邦茂はいよいよメキシコ・オリンピックに入った――。
68年メキシコ大会のサッカー競技は10月13日に始まり、まず1次リーグA組2試合、メキシコ対コロンビア(1−0)フランス対ギニア(3−1)C組の2試合、ハンガリー対エルサルバドル(4−0)イスラエル対ガーナ(5−3)が行なわれた。B組の日本の第1戦は次の日、14日。会場はメキシコシティから東南130キロにあるプエブラ。相手はナイジェリアだった。
9月22日に日本を出発した長沼健監督、岡野俊一郎コーチと18人の選手は、ロサンゼルスで1週間滞在、9月25日にメキシコシティの選手村に入った。
2200mの高地で行なわれる大会では、各国ともに酸素の少ない高地対策が問題となっていた。日本チームは、まずロサンゼルスで時差のコンディションを解消し、練習試合も行ない、メキシコ到着後も18日間かけて計画通りの調整を行なっていた。「メキシコでの勝因の第一は高地問題の解決をはじめ全員のコンディションが良かったこと。心理的にも充実し、試合が待ち遠しく、当日はさあやるぞという感じだった」(釜本)
サッカーチームとして独自にマッサージの安斎勝昭さんを帯同していたことも、体調管理の大きなプラスだった。当時JOC(日本オリンピック委員会)ではマッサージ・トレーナーの帯同を認めていなかったので、JFAからの派遣の形をとった。他競技の選手のマッサージも頼まれて安斎トレーナ―は大忙しだった。
試合準備の中でもう一つのポイント、相手チームの分析も進んでいた。大会前の情報入手と、直前のハンガリー対ナイジェリアの練習試合の偵察もできた。
午後3時30分キックオフ、日本はGK横山謙三、DFが片山洋、森孝慈、鎌田光夫、小城得達、宮本征勝、MFは八重樫茂生と宮本輝紀、FWは右が松本育夫、左が杉山隆一、CFは釜本だった。守りでは鎌田がスィーパー、相手のFWアゴゴブビアに宮本征、アニエケには小城、ラワルには片山が密着マークした。
24分に杉山が左タッチライン沿いでキープし、前方のスペースへ走った八重樫へパス、八重樫からのクロスを釜本がヘディングで決めて先制した。
33分にナイジェリアが追い付く。左側から攻め込み、第2列のオコデが右へ開いたところへボールが出た。森が距離を詰める間もなくドリブルシュートして同点。アフリカ勢特有のバネのある走り、キープ力などの個人技と、日本の組織プレーの戦いは五分の形勢のまま後半へ。
雲が出て、日が陰り、日本の調子が上がって両サイドからの攻めが活発となる。
73分(後半28分)に勝ち越し点。杉山へのファウルで日本が左サイドでFK。シュートを狙える距離でもあり、釜本の頭に合わせられる位置でもあった。それを八重樫は縦に走った杉山へ送り、杉山はペナルティエリア外の深いところからグラウンダーで返した。釜本が左足でとらえ、ボールは右隅に飛び込んだ。
ベテランらしい八重樫の判断。それを察知した杉山のランとクロス。そして、釜本の左足――“東京”以来4年間の成果が出た攻めでもあった。
2−1となったが、八重樫が足を傷めて走れなくなった。桑原楽之をCFに入れ、釜本を下がり目のポジションにした。タイムアップ間近にその釜本が相手のゴールキックを中央左寄りで取って、35mのロングシュートを、左上隅に決めた。長沼健監督のリポートでは、「観客がどよめいたのは、ボールがネットに当たり、落下してしばらくしてからだった」と記している。
3−1、日本代表は、4年前の10月14日、東京でアルゼンチンを破ったのと同じ日にアフリカの強豪を破った。
この日、B組のスペイン対ブラジルがメキシコシティのアステカ競技場で行なわれ、1−0でスペインが勝った。D組ではグアテマラ対チェコスロバキア(1−0)ブルガリア対タイ(7−0)が行なわれ、前日と合わせて16チームの第1戦が終わった。
日本は勝点2(当時は1勝が2勝点)でスペインと並び、得失点差は2という有利な立場だった。現地からの報道は日本選手たちはこの勝利にも冷静だったと伝えている。彼らはグループリーグでの第2戦の重さを心得ていたからだ。
(週刊サッカーマガジン 2009年2月17日号)