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木曜日のボール By近藤 篤


(写真撮影:近藤 篤)

1944年の6月、当時19歳だった賀川のオッチャンは航空隊に志願し、1945年3月には北朝鮮に渡っていた。オッチャンが戦闘機乗りに決めたのは、愛国心なんてヤヤコシイ理由ではない。「なんやエライことになっとるなぁ、勝つにしても負けるにしても、このオレも参加せんわけにはいかんやろ」と思ったからだった。

しかし、世界史はオッチャンだけの都合では動いてはくれない。さあそろそろオレの番やなぁ、と思っていたら、日本は降伏してしまい、日本軍は本土に引き上げることになった。「そんなんありかいな、こっちは死ぬつもりで来てんの、今さら急にハイお終い、もう帰ってええですって、あんたらええ加減にしてくれんかぁ」、それが若かりし賀川のオッチャンの正直な気持ちだった。

朝鮮半島から引き上げて来たオッチャンは、なんだかやる気も行き先も失った。翌年には神戸大の予科を中退し、数年間ブラブラと悩んで過ごした。サッカーばっかりやってたらバカになる、と思いつつも、サッカーばっかりやって過ごした。オッチャンは上手かったし、日本代表選手にもなった賀川太郎の弟でもあったから、どこのチームに顔を出しても、気安く受け入れてもらえた。

その後オッチャンは産経新聞の大阪支局に職を得た。同時多発的に物事を考えることのできる脳味噌と、少年のような笑顔と心を持つオッチャンには、この仕事が向いていたのだろう。オッチャンはガンガン働き、サンスポの編集局長を勤めた10年間には、関西地方でのサンスポ販売シェアを45%! まで伸ばした。そんなオッチャンから見れば、今どきの記者だの編集長だのは、みんなただのションベン臭いハナ垂れ小僧である。

先日、都内のホテルで開かれた「サッカーマガジン誌W杯週2回発行決断パーティ」の際、誰もが「死ぬ気で頑張ろうと思います」と大げさなスピーチを述べる中、一人賀川のオッチャンだけは、「人間、働き過ぎで死ぬことはありません、肉体の限界まで働いたら、知らん間に机の上に突っ伏して寝てます。ほんで1時間ほど寝たら、人間はまた働けるもんです。働き過ぎて死んだりするのは、仕事のほかに、酒飲みに行ったりしようとするからですわ」とサラリと言ってのけていた。

1945年夏、たしかに賀川のオッチャンは死にそこねた。でもそのお陰で、オッチャンはW杯を7度も生で見ることができたし、日本サッカーの成長も見届けてこれたし、30歳下の素敵な女性とも結婚することもできた。そして77歳になった今でも、本人曰く、「まぁこの歳になったら、誰でもそうやろけど、たまに隣の部屋まで行ってな、あれ、オレ何しに来たんやろ、ってことはある」らしいが、事サッカーに関しては、オッチャンの記憶は正確無比だし、スタジアムの記者席に座った瞬間、「あれワシここに何しに来たんやろ」とおもったことは、(多分)未だ一度もない。


(週刊サッカーマガジン No.867 2002年5月29日号)

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