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釜本邦茂(17)68年オリンピック3位決定戦、開催国メキシコ相手に2ゴール

 1968年10月24日、メキシコ・オリンピックの3位決定戦が午後3時30分からアステカ・スタジアムで行なわれた。
 22日の準決勝で日本がハンガリーに敗れたとき、メキシコもグアダラハラでブルガリアに2−3で敗れている。1次リーグA組で2位となった彼らは準々決勝でB組1位のスペインと戦い2−0で勝利を収めて、ベスト4へ進んだのだった。
 スペインといえば、この連載の3月3日号でお伝えしたとおり、1次リーグB組の第3戦で日本が「引き分けにした」相手だった。ベスト4を懸けた試合で開催国と当たることを避けた日本側の考えどおりの進行だった。おかげで日本は10月18日のスペイン戦以降、アステカでの3連戦、移動なしで3位決定戦を迎えたのだった。ただ一つの誤算は、ハンガリー戦が大きな点差での敗戦だったことだが、選手たちの気持ちの切り替えは早かった。

 小城得達の話によると、「クラマーさんが試合の後で、皆を集めてこう言った。『私は、諸君に一番大事なサッカーのルールを教えることを忘れていたのをお詫びしなければならない。それは手を使ってはいけないということだ』と」。
 ハンガリー戦での0−5の大差で敗れた原因に小城の不運なハンドによる2度のPK(2失点)があったのだが、「クラマーさんはそのことを真面目な顔つきでジョークにした。そこで笑いが起こって、選手たちの気分がほぐれていった」。

 10月14日から22日まで、標高2000メートルを越える高地で9日間、6試合のハードスケジュールにもかかわらず、日本代表の士気は高まっていた。
 北中米のサッカー強国メキシコ、金メダル候補と目されていたイレブンには3位は「至上命題」だった。
 キックオフから圧倒的なスタンドの声援をバックにメキシコが優勢だった。「押し込まれて、中盤のボールを拾われて、苦しい防戦となった」と長沼健監督は、この試合のリポートにそう記している。

 17分に日本が先制ゴールを奪った。
 杉山隆一―釜本邦茂のホットラインからだが、その前に日本が攻め込んで、宮本輝紀の中距離シュート(ゴール左外へ)が出た後、相手のポゼッションからミスパスがあり、宮本輝が自陣でこれを取ったところから始まった。
 宮本輝はすぐ前方の釜本へ。相手陣内のセンターサークル・ラインで受けた釜本はDFを背にして、一つ止めて左後方の杉山へパス。杉山は左前へ走った釜本にパスを送り、釜本は左タッチ際まで走って、追走するDFを後方への切り返しでかわし、内側へドリブルし、左サイドを走りあがった杉山へ再びボールを渡した。
 ゴール前へは、この日MFの渡辺正が走り込んでいたが、杉山はペナルティエリア左角の外7メートルあたりでゆっくりキープ。釜本がペナルティエリア正面へ動くのを見ながら、内側へやや戻り気味にドリブルしてパスを送る。ボールはDFの頭を越えて、釜本へ。ペナルティキックマークあたりで釜本は胸で止め左足でシュートした。
 落下して2バウンド目が地面につく前に蹴ったシュートはゴール右下へ転がりこんだ(釜本の話ではミスキックだったとか)。杉山とそのキープのボールを注視していたGKハビエル・バルガスやDFたちには、釜本の現れ方に意表を突かれた――という感じだった。1−0。

 メキシコの攻めはさらに強くなって日本側にヒヤリとする場面が増えた。しかし、相手のゴールゲッター、ペレーダに密着する小城をはじめ、日本バック陣のクローズド・マークと、スイーパー鎌田光夫のカバーリングが光り、GK横山謙三もしっかり守った。

 圧迫され続けた中で39分にカウンターから見事な2点目が生まれた。相手のミスからボールを奪った山口芳忠が、ためらいなく左前方へ長いボールを送った。自陣の中央寄りの守りに戻っていた杉山が快足を生かして、相手DFより先にボールを取り、切り返しでかわして内へドリブルする。釜本が右から中へ走り上がってくる。日本の速攻を警戒した相手DFは、急速の帰陣でペナルティエリア内に戻っていた。ペナルティエリア左角の外、数メートル(ここは、彼がシュートも狙える杉山エリアだと私は思っている)から、ゴール正面20メートルの釜本へパスが渡る。釜本は右足でボールをピタリと止め、小さく押し出して前を向いて右足でしっかりと叩いた。ボールはGKバルガスの左を抜いて左ポストぎりぎりに飛び込んだ。
「2点目は会心のゴール。杉山さんが速く、低いボールを足元へ送ってきた。止めて、そのまま頭の中のスクリーンにあるゴール目がけて無心に蹴った。防ぎに来るバックの股の下を抜けて、イメージどおりにいった」とはストライカー自身の回顧である。


(週刊サッカーマガジン 2009年3月17日号)

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