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釜本邦茂(19)メキシコ銅メダルでJSLは観客増となり、ファンは満足と幸福感に酔う

 2007年春からスタートしたこの連載「我が心のゴールハンター」は、ただ今10人目の釜本邦茂――。これまでの19回でその生い立ちから24歳でメキシコ・オリンピックの銅メダル獲得と、彼自身が7ゴールの得点王になったところまでを紹介した。
 当時の日本選手としてはずば抜けた長身(公称は179センチだが実際は182センチ)であった釜本は、そのたぐい稀な身体的資質に加えて飽くなきゴールへの執着心と自らの努力、デットマール・クラマーをはじめとする優れた指導者たちの啓発によって、かつてない高いレベルに到達した。彼のプレーヤーとしてのキャリアは、1984年の引退試合まで続き、その長い選手生活には、病もあり、ケガや体の衰えの自覚、あるいは監督兼任といった、さまざまな問題もあるのだが、その中でひたすらストライカーであり続けたところに釜本邦茂らしさがあった。“メキシコ”の秋から16年後の84年8月25日の引退試合で、40歳の彼が左からのクロスに合わせて、右から走り込んで左足のシュートを決めたとき、私は驚きとともに、68年のナイジェリア戦の2点目を思い出したものだ。

 実は68年秋には、オリンピックとは別にカマモトには世界にデビューする大きなチャンスがあった。メキシコの銅メダルから2週間後にブラジルのリオデジャネイロで開催されたブラジル協会創立50周年記念のブラジル代表対FIFA選抜の試合に招待されたのだった。当時FIFAのコーチで、この選抜チームの監督であったクラマーが、日本代表チームの長沼健監督、岡野俊一郎コーチに要請し、日本側は参加するかどうかは釜本の意志に任せるとした。
 プロサッカーの世界は手の届かない彼方のこと。ワールドカップも、まだユメであった当時にあって、私を含めて多くの日本のサッカー人には、このブラジル対世界選抜の試合に出場することが、一人の選手の人生にどれだけ大きなことかは理解されていなかったと言える――。今から考えればもったいない話だが、疲れていた釜本は日本代表チームとともに10月27日に帰国の途につくことを選んだのだった。

 この試合にはクラマー監督のアシスタントとして平木隆三(故人、当時の日本代表コーチ)が参加し、その詳細をリポートしているが、11月6日のこの対戦にはブラジル側は、ペレをはじめカルロス・アウベルト、エベラウド、ジェルソン、リベリーノ、ジャイルジーニョ、トスタンなど、70年ワールドカップで優勝する主力が揃い、世界選抜は西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーやボルフガング・オベラート、ハンガリーのフローリアン・アルベルトやウルグアイのペドロ・ローチャ、ラディスラオ・マズルケビッチ、あるいはソ連のレフ・ヤシンといった錚々たるメンバーで、好試合の末2−1でブラジルが勝っている。リオの新聞はブラジルの勝利を喜びとともに報じ、同時にFIFA選抜を短い期間でまとめたクラマーの手腕を称えたというが、クラマー自身が後に私に語ったところでは「選抜」の主将のヤシンは「カマモトが来れば勝てたのに――」と言ったとか。

 メキシコで精根尽き果てるまで戦った代表には11月9日からのJSL後期リーグ第8節が待っていた。銅メダル効果は観客動員にも表れ、第9節の三菱重工対ヤンマーディーゼル(国立)には4万人が集まった。
 このシーズン、ヤンマーは東洋工業(4連覇)に次いで2位となり、釜本は14得点(14試合)で初のリーグ得点王となった。天皇杯では元日決勝で三菱重工(JSL3位)を1−0で破って初優勝した。決勝ゴールは釜本。ゴール正面、ペナルティエリア外で、右からのボールを受けてDFを左へかわし、エリアラインから左足シュートを叩き込んだ。
 それは68年のリーグ開幕で見せた西ドイツ留学の成果、自らストライカーであった西ドイツのユップ・デアバルコーチの下での2ヶ月のマンツーマン指導の後に、披露した対名古屋相互銀行戦での反転シュートと同じ型だったが、天皇杯のそれは、3月の“電光石火”の上に“オリンピック得点王”の自信と力強さが溢れているように見えた。

 日本蹴球協会(JFA、当時はそう呼んでいた)機関紙『サッカー』の69年1月号の巻頭の新春随筆に、私の尊敬する新田純興(にった・すみおき)JFA常務理事(故人)が「楽しい元日だった」という書き出しで、この天皇杯決勝を3万5,000人の観客とともに楽しんだこと、メキシコで銅メダルとともにフェアプレー賞を受賞したことの喜びを記している。フェアプレーを重んじる長老にとって、この受賞には格別の思いであったはずだが、長老だけでなく69年の2月は、優れたストライカーの成果と代表の活躍、JSLの盛況に日本中のサッカーファンは幸福をかみしめていた。
 しかし「禍福は糾(あざな)える縄の如し」。半年後、そのストライカーの病の知らせで、私たちの幸いの月日は止まってしまう。


(週刊サッカーマガジン 2009年3月31日号)

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