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釜本邦茂(20)病で消えたW杯のユメ。それでも衰えぬゴールへの意欲で円熟へ向かう

 3月18日に行なわれたACL(AFCチャンピオンズリーグ)のグループステージG組第2戦で鹿島は上海申花(中国)を2−0で破った。この試合に鹿児島城西高から加わった新人・大迫勇也が公式戦初先発して、80分に初ゴールを決めた。彼は前半終了間際の野沢拓也の得点にも見事なラストパスを送っていたから、この日1ゴール、1アシストとチームの2得点に絡む活躍だった。
 1990年5月18日生まれ、18歳10ヶ月の大迫のプロフェッショナルでの初ゴールの生まれたこの日と、彼が80分間に演じたいくつかの印象に残るプレーは、彼自身にも、鹿島の歴史でも、日本サッカーでも記憶に残るものとなるだろう。大迫勇也の成長を祈りつつ、表題の釜本邦茂の連載に入ろう――。


 1968年秋のメキシコ・オリンピックの栄光によって、69年前半の日本中のサッカー人は幸福感に浸ったが、その年の6月16日、釜本邦茂の「ウイルス性肝炎による入院」の報で一転する。肝臓障害というスポーツマンにとっての難敵を相手に彼が入院、静養を続ける間に、70年ワールドカップのアジア予選が行なわれ、強力ストライカーを欠いた日本代表はソウル大会で敗退した。
 彼の回復への強い意志とドクターや周囲の協力によって、釜本は11月の日本リーグ(JSL)に復帰する。「スポーツ選手にとって、25歳という肉体的最盛期に肝炎で中断されたのは本人にも大変だったろうが、医師の言うことをよく守る良い患者だった。完全に回復してからも、3年ばかり検査を続け、少し具合が悪いとすぐ病院へ飛んできた。あの豪快なプレーの半面、ずいぶん用心深いのに感心した」とは、主治医の日笠敦(ひがさ・あつし)ドクターの話。

 ワールドカップ出場のユメは去り、“メキシコ得点王”への海外からの誘いも消えた。誘いがあっても彼自身、慎重になった。そんな、より華やかな高みへの望みは薄らいでも、ゴールへの貪欲さ、ストライカーとしての自負と上達への意欲は衰えなかった。
 70年の大阪万博のときに来日したポルトガルのベンフィカ・リスボンと神戸で試合する前日、めずらしく釜本がサインをもらうのを見た。「彼だけはもらっておこう」と釜本はちょっとテレくさそうに紙を差し出していた。相手はエウゼビオ、66年ワールドカップ得点王だった。釜本はエウゼビオの抑えの効いた低く強いシュートに注目していた。
 バーを簡単に越えたりしないエウゼビオの弾丸シュートは、踏み込み足をボールより前に置くところにあった。踏み込みを前にしてボールを上から叩いていた。
 自分もそれを真似してみた。しかし、エウゼビオの通りにはうまくいかない。そこで、彼ほど前に置くのでなく、半足くらいにしてみた。それでうまくいった――という。

 70年12月の第6回アジア大会(バンコク)では代表に加わり暑熱の中でプレーした。
 71年にはヤンマーのJSL初制覇に貢献し、11得点(14試合)で得点王になったが、この頃からアシストの数も増え、仲間を生かすプレーが目立つようになった。
 72年5月、ペレが彼のチーム「サントスFC」とともに来日して日本代表との試合で好プレーを演じたのも刺激となった。
 ベルリン・オリンピック(36年)のヒーローの一人であり、シュートの名人と言われた川本泰三さん(1914−85年)との「消えろ」の禅問答的やり取りをしたのも、この頃だった。

「点を取ろうと思ったら、消えなアカン」とだけ、ぶっきら棒に言う名人のヒントに彼は頭を悩ませた。
 マーク相手の視野から消え、得意の地点に現れてシュート(ヘディング)するのは、世界の良いストライカーの芸の一つ。百獣の王ライオンや、トラなども獲物を襲う前にまず身を隠すことから始めるというが、戦前のゴールゲッターで、当時の国内試合でも相手チームの専属のDFにマークされていた川本さんが、そのマークを外すために工夫して、そこから「消える」という言葉を生み出したもの。
 ヒントもなしにとりかかった難解な「消えろ」はやがてマークの視野から消えることだと察するようになり、“メキシコ”の対フランス戦2点目のときに、そういう動きをしたことに気がつく。苦労して「消える」をつかんだ彼のゴールを奪う動きは、相手にとってはさらに防ぎにくいものになる。
 それまで彼の体の大きさ、しなやかさ、強さ、蹴り足の振りの速さ――といった身体能力を利かせたゴールに感嘆していた私は、27−28歳頃の彼のゴールに“円熟”を見る喜びが加わるのだった。


(週刊サッカーマガジン 2009年4月7日号)

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