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釜本邦茂(21)肝炎から立ち直った第2黄金期。国内外で演じたビューティフル・ゴール

 東京、メキシコと2つのオリンピックに出場して1968年メキシコで得点王、銅メダルに輝いたのが24歳、その時期を彼の黄金時代第1期とすれば、25歳で肝炎に倒れ、本格的に回復した72〜77年が第2黄金期になるだろうか――。

 その間に世界のサッカー界は74年ワールドカップ西ドイツ大会でオランダ代表が演じたトータル・フットボールに影響され、現代の全員守備、全員攻撃――選手一人ひとりの運動量の大幅なアップに加えて、それぞれに攻めと守りの技術と動きが要求されるサッカーへ向かい始めていた。当時の日本サッカーのトップにあったJSL(日本サッカーリーグ)の各チームと日本代表も当然こうした変革に取り組み、アマチュアという枠の中で懸命なレベルアップを図った。
 ネルソン吉村大志郎というブラジルの日系三世を受け入れた効果のあったヤンマーは、黒人のカルロス・エステベスや日系のジョージ小林などが加わった。もちろん、今のJリーグのようにプロの名の通った選手ではなかったが、ブラジル育ちのボールテクニックは周囲にも好影響を与えた。
 そうした仲間との協力でJSLの釜本邦茂の得点は積み重ねられて、74年10月20日、国立競技場での対三菱(3−1)で100ゴールに達した。67年4月9日のデビュー試合の初ゴールから109試合目(8シーズン目)だった。

 この試合で前半1−1の後、46分に釜本は堀井美晴の左からの速いクロスをヘディングで99点目を決めている。このゴールは、前号での“消える”の実例の一つで、左からのボールに対して、いったん右外へ動いて、DFの視野から消えておいて、ボール到達のときにはそのDFの内側(ニアサイド)へ入ってヘディングした。
 100点目はその5分後。ネルソン吉村が送ったロブボールの落下点へ走り込み、三菱の大谷栄一が背後から潰しに来るより一瞬早く、左足のトウ(つま先)でシュートした。ボールはGK横山謙三の手をかすめて、左ポストぎりぎりにゴールした。

 その2年前の72年7月12日、マレーシアのムルデカ大会に日本代表として出場した釜本は、グループリーグの対カンボジア(4−1)で目の覚めるようなオーバーヘッドシュートを決めている。
 高田一美の右からのクロスをゴール正面ペナルティエリアの外で蹴った。「クロスボールが僕の後方へ来た。シザースで右足で踏み切り、右足で蹴った。体が回復し、調子が良かったから思い切ったプレーができたのだろう」とは本人の話だが、この大会のマレーシアAとの試合でも、山口芳忠からのクロスをゴールを背にして胸で止めて、オーバーヘッドシュートを決めている。日本代表は大会で3位、釜本は15ゴールで得点王となった。もともと東南アジアで人気のあった彼の名声はこの大会で不動のものになる。
 彼にとっては、この年の5月26日にサントスと対戦(0−3、国立競技場)し、ペレの妙技を見たことが大きな刺激となり、この活躍につながった。

 この年の秋から、1年間に7度も足の故障に見舞われ、73年は代表でも、ヤンマーでも不満な年だった。それが、74年にJSLで前記の100ゴールを含んで21ゴールして得点王と優勝を手にしたのは、代表のヨーロッパ遠征で、74年ワールドカップを見学して、ゲルト・ミュラーのゴールやヨハン・クライフの疾風のような攻撃を見たからだという。
 良いプレーに接して感じるものがあれば、すぐにそれを自分のものにする。意欲をかき立て、より高みを目指す彼は、75年(17得点=17試合)76年(15得点=17試合)と3年連続リーグ得点王(通算5回)となる。75年はリーグ最終節で同率首位の三菱戦で優勝が決まったが、このときのチーム4点目、彼にとっての2点目は今村博治からのパスをペナルティエリア右角で受けての得意の右45度のシュート。そのシュートの構えに入ったとき、私は記者席で思わず「入った」と叫んでいた。
 大学生の頃から、納得いくまで繰り返し練習してつくり上げたこのシュートは、銅メダルメンバーのGK横山も防げなかった。

 77年に講談社から『釜本邦茂・ストライカーの技術と戦術』が出版された。
 68年のメキシコ・オリンピックのときから編集者、風呂中斎(故人)さんから是非といわれ続けていた企画が、ようやく実現した。監修者である私の狙いは、釜本選手自身の一人称による語りと彼のプレーのフォームと、一連の動作を写真によって明らかにし、後に残すことだった。
 二人のカメラマンが撮り続けたものすごい量の連続写真(1秒間25コマ)を見ながら、彼のヘディングやシュートへ入っていく手順の確かさを、その一つひとつのフォームの美しさに改めて驚いていくのだった。


(週刊サッカーマガジン 2009年4月14日号)

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