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釜本邦茂(22)36歳、監督兼任ストライカーで優勝。クライフ、プラティニらと世界選抜チームに

 3月28日のバーレーン戦1−0、おめでとう。今度は中村俊輔と遠藤保仁の二人がそろってのベストメンバーだから大丈夫だろうと思っていたが、期待以上に楽しい試合だった。
 玉田圭司がドリブルを仕掛けて、良い位置でもらったFKのチャンスを俊輔が決める、というリスタート(停止球)からの決勝ゴールは、野球好きの日本のメディア(例えばテレビのニュースショー番組のコメンテーターたち)にも分かりやすいはずだが、もし後半、内田篤人が二度の決定機のうち一つでも決めていれば、翌日の大見出しになっていただけでなく、パスの後に続くシュートということで、ベースボールとは違ったサッカーの面白さが語られたことだろう。
 内田以外にも良いシュートチャンスの場面があって2点目、3点目が奪えなかったのは惜しいことだが、レベルアップ中の選手たちが練習の質と量を高めて、次の試合でさらに良いプレーを見せてくれることに期待したい。


 さて、釜本邦茂。第2最盛期ともいうべき1970年代前半の彼と、ヤンマーの試合を見るのは楽しいことだった。
 71年から75年までにヤンマーはJSL(日本サッカーリーグ)優勝3回、2位と3位が各1回、天皇杯優勝2回、準優勝2回、ベスト4が2回と常に日本のトップを争い、釜本もまたゴールを量産し、周囲の適切なサポートを受ければ日本のナンバーワンのゴールスコアラーであることを示した。

 しかし、日本代表チームでは事情が違った。
 メキシコの同僚が去り、新しい若い仲間との連係はヤンマーのようにはいかなかった。  77年3月、アルゼンチン・ワールドカップ予選に敗れた後、6月15日の第6回日韓定期戦で日の丸のユニフォームを脱ぐことにした。JFA(日本サッカー協会)は9月14日、国立競技場でのニューヨーク・コスモスのペレ・サヨナラ戦に合わせて釜本の代表引退を発表した。
 私自身は、代表の引退表明はまだ早いと思っていた。代表チームが、また彼を必要とするときもあり得ると考えたからだが――。
 この“代表引退式”でペレは自分の靴を脱いで釜本に贈り「若い人はカマモトを見習えば立派な選手になれる」と言った。13年の代表キャリアを終えた釜本は、78年から監督兼任プレーヤーになった。ヤンマーも主力の交代期だった。

 JSLにも読売クラブやフジタといった新しい勢力が加わり、プロへの意識が芽生え始めていた。
 78年が2位、79年は4位だったヤンマーは80年に4度目の優勝を遂げる。この年、釜本があくまでストライカーとしてゴール前のプレーに専念したのが、13勝4分け1敗の好成績につながった。
 ゴール前に彼がいることが相手の威圧となった。ゴール数は10だったが、アシスト数は8を記録した。ヤマハの監督をしていた杉山隆一は、その正確なヘディングからゴールを奪われたとき、「ガマは怪物ですよ」――と言った。年をとれば瞬発力が落ちるはずなのに、彼のヘディングのジャンプにかなう者はいなかった。

 80年JSL優勝チームの監督であり、CF(センターフォワード)の釜本邦茂選手には、12月16日に新しい栄誉が待っていた。
 スペインの名門バルセロナFCの創立80周年記念事業として、世界選抜対バルセロナのユニセフ・チャリティマッチに招待されたのだった。この話は、私がこの年6月にイタリアでEURO80(80年ヨーロッパ選手権)を取材した際に、バルセロナ側のプロモーターから聞かされ、日本から選手を送ってほしいと依頼されたことでスタートした。
 JFAへユニセフの正式の招待状を送ってもらい、ヤンマー側も了承して参加が決まった。
 バルセロナでもプレーしたヨハン・クライフが世界選抜のキャプテン、ミシェル・プラティニやジョルジ・キナーリア、ライナー・ボンホフ、カールハインツ・ルムメニゲ、オレフ・ブロヒンといった錚々たるメンバーに混じって、釜本は後半45分をプレーした。

 このときの世界選抜の監督が68年の西ドイツ留学のときの恩師、ユップ・デアバルさん(故人)だったことも彼の運の強さだろう。不審顔のスターもいたが、監督は有無を言わさず、極東弱小サッカー国のスターを登場させた。
 ピッチに立ってしまえばこちらのもの。彼はキナーリアに代わってプレーし、FKのキッカーとなったとき、フェイクでボンホフに渡し、ボンホフがゴールを決めた。ボンホフのシュートが意表を突いたのは、ボールを前にしたカマモトのシューターとしての“格”を相手が感じたからだと言える。


(週刊サッカーマガジン 2009年4月21日号)

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