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釜本邦茂(23)1981年11月1日、JSL200ゴール達成。82年アキレス腱損傷。だが故障に負けての引退はしない

 プレーヤー兼任の監督、釜本邦茂は3年目でヤンマーをJSL(日本サッカーリーグ)の優勝(4度目)に導いた。オールラウンド、全員攻撃、全員防御の世界の潮流を追う日本サッカーの流れのなかで、ヤンマーは選手一人ひとりが責任を持つことを重視した。バックはしっかり守れ、中盤は中盤の仕事をしろ――といった調子。“選手”釜本も、ゴール前の仕事に専念することにした。自身で決めたゴールは10と多くはないが、ラストパスを出して、仲間に決めさせたアシストが8本、さらには最終パスのお膳立てもして“ゴール”に絡む能力を改めて見せつけた。

 次の1881年シーズン、36歳の彼にはJSLでの通算200ゴールという目標が待っていた。67年から80年までの14シーズン(出場220試合)ですでに190得点に達していた。当時のJSLは8チームでスタートし、のちに10チームとなったから、試合数は14から18で今のJリーグに比べると、ずいぶん少ないが、釜本には77年までの日本代表時代に年間15から30の代表の国際試合があり、JSLと天皇杯、リーグカップ、ヤンマーの国際試合(海外遠征を含む)もあって、年間50試合近くに出場していた。
 そのなかでリーグ220試合、190ゴール、1試合平均0.86、ほとんど1試合1ゴールに近い数字を重ねてきたのだった。

 4月5日に開幕したこの年のJSLで、彼の191得点目は4節の対日立(大宮)だった。注目の試合は11月1日、神戸御崎サッカー場での第15節、対本田技研だった。釜本は10月24日の第14節、対新日鉄(鞘ヶ谷)で2ゴールして199点に積み上げていた。新日鉄が2−0で前半をリードしたが、後半、藤原義三に代わって釜本が入ると流れは一気にヤンマーに傾いた。55分に楚輪博のクロスを釜本がヘディングシュートして1−2と追い上げ、68分にも楚輪のFKをまたも釜本がヘディングで同点。堀井美晴が3点目を奪った。

 本田技研は前年のJSL2部で優勝してこの年に昇格したチーム。釜本と同時代に活躍し、日本代表の経験を持つ桑原勝義(現・静岡県協会理事長、JFA理事)が監督。セイハン比嘉やジョン・カルロス・ジオリットといったブラジル人もいた。先制は本田。CKを比嘉がヘッドしてジオリットが決めた。
 出鼻を叩かれたヤンマーだったが、こういう節目となる試合でチャンスを逃さないのが釜本邦茂――。34分に左サイドの楚輪が送ってきたグラウンダーのクロスを受けて左足でズバリと決めた。
 楚輪は釜本より12歳若く(1956年5月1日生まれ、現・富山監督)広島県工高から法政大を経てヤンマー入りして3シーズン目。左足のパスが正確で伸び盛りのMFだった。
 その楚輪がクロスを送る前に釜本は右へ動いて、相手マークの視野から消え、パスが出たときにニアサイドへ走りこんでシュートした。いつもながら、しっかり右足を踏み込み、力強く美しいフォームで左足を振り上げ、振り下ろした。ボールはゴール右隅へ入った。ハーフタイムに「GOAL 200」の記念楯を贈られて、釜本とヤンマーの勢いは増した。57分に楚輪―今村博治で2−1、73分に再び楚輪から、今度は上西一雄が受けてシュートし、DFにあたってオウンゴールで3点目。そして、85分に釜本が4点目。201点目を決めた。今度も楚輪からのボールをヘディングで決めた。

 この何年か前、ある日本代表の試合の後で釜本とこんな会話を交わした。
「右足のシュートを潰されたのがあったが、あれは右足の振りが遅くなっていたのか、それとも相手が……」
「僕の振りが遅くなっているんです」
「国際試合でレベルの高い相手にはうまくいかなくても、まだ国内試合なら自分のプレーは通用すると思っている」とも言った。
 長居スタジアムで、この日の2ゴールを見ながら、世界を驚かせたあの右足の振りの速さはともかく、この美しいゴールシーンを、あと何年見続けることができるのだろうかと思った。

 82年5月20日、日本リーグ第8節、対マツダのアウェー戦で釜本負傷が伝えられた。
 右アキレス腱の損傷だった。
 ベテラン選手にとって問題となるのは、故障が回復するかどうかでなく、回復には“とき”が必要なことだった。その“時間”を待つ余裕がなくてプレーを再開し、故障を再発してしまうのが、世界の多くの大選手の晩年の悲しみだった。
 8月11日にまた同じ右アキレス腱を損傷した。38歳という年齢からみて、多くの人が現役引退を予想したのも不思議ではなかったが、彼はケガに“負けて”の引退はしたくなかった。
 そして1年半の治療の後、83年の11月3日と6日のJSLにわずかの時間だが出場し、84年元旦の天皇杯決勝、ヤンマー対日産の後半をラストマッチとした。


(週刊サッカーマガジン 2009年4月28日号)

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