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右45度からの得点

ボール扱い全般は向上したが、キック力は不充分

 ロス五輪アジア戦第5組の予選でも、日本代表チームは得点力の少ない欠点がはっきり出ていた。
 日本サッカーのレベル向上のためには、まずボールを扱う技術を高めてゆこう──との方針が効果を挙げてきたこの頃だ。ドイツにいる友人の話では、尾崎君(A・ビーレフェルト)やオランダにいる望月君達のプレーを見て、ドイツ人達が「日本人は手だけでなく、足も器用なんだナ」と言っているとか。そんな評価はこれまではまずなかったから、東京オリンピック以後の各地の少年育成、そして、活字や口で、そのお先棒を担いできた私も、まずは良かったと思う。

 しかし、ボールに馴れ、扱うことに上達したけれども、それが大人のトップチーム、大学リーグ、日本リーグや日本代表チームでの実戦に役立っているかどうか、となるとまた別のようだ。
 いわばボール扱い全般のレベルは上がったが、試合の局面、局面で必要なワザ、ポジションプレーに結びついていないのではないか。一般教養はあるが、専門職でないというところか──。
 ボール扱いという基礎技術の中でも、ボールをコントロールすること、ドリブルすることと同じように大切なキックが、おろそかになっている気配がある。
 ために試合中、必要な場面での必要なキックが上手くできない。いいパスが少ないし、いいシュートが見られない。
 代表チームに、いいシュートがなく、得点力の少ないのを嘆くのも、理由あってのことだ。

 そんな背景を考えながらストライカーの技術講座を著してみることになった。この項から、日本の生んだ偉大なストライカー釜本邦茂の記憶に残るゴールを取り上げ、その得点を完成するために試合でプレーした技術を覗こう。その技術を(あるいは技術の組み合わせを)釜本選手がどのようにして作ったかを探ってみたい。
 皆さんと一緒に楽しむこの勉強会を、できるだけ実り多いものにしたいと願っている。
 まずは釜本選手の十八番といわれている右45度からの得点について。


確かなインステップのボールをとらえる巧さと強さ

1975年(昭和50年)12月14日、東京・国立
日本リーグ第18節(最終節)の三菱−ヤンマー。後半3分

 両チームとも第17節まで13勝3分け1敗、勝点29。この試合に勝った方が優勝(引き分ければ得失点差でヤンマー)という劇的な最終戦にスタンドには3万5千人がつめかけた。
 前半12分に三菱が落合のシュートでリード、ヤンマーは21分に阿部のヘディングで同点、27分に釜本のPKで2点目、31分に吉村がFKを決めて3−1とした。

 2点の差を追う三菱が後半に、どんな反撃を見せるかと期待されたが、3分(48分)に釜本のシュートでヤンマーの4点目が生まれた。
 攻撃に出ようとした三菱側のボールをヤンマー側が奪い、今村が中央をドリブルで進み、右へ開いていた釜本にパス。釜本はペナルティーエリアにかかったあたり、右45度から右足でシュート。ボールはゴール左下(釜本から見て)へ飛び込んだ。
 相手ボールからヤンマー側ボールとなり、今村はドリブルシュートの気配をみせて、三菱をひきつけパスしたから、釜本がシュートの体勢に入ったときにはノーマーク。しかも彼の得意の角度……。スタンドから見ていて、蹴る前に「ゴール」を直感した。GK田口は、前進してシュートのコースを消そうとしたがダメだった。低く押さえのきいた、速い球を防ぐことはできなかった。
 このゴールは後半に挽回を計る三菱の出鼻を叩き、ヤンマーの2年連続リーグ優勝(1974年、75年)を決定づけると共に、'75リーグでの釜本個人の17点目で、2年連続5度目のリーグ得点王を決定づけた。と同時に、釜本の右シュート、特に「右45度」の確かさを、改めて多くのファンに印象付けたのだった。

 1944年4月15日生まれの釜本邦茂選手は、このとき31歳になっていた。
 1968年メキシコ・オリンピックで日本代表のCFとして7ゴールを挙げ、チームの銅メダル獲得に大きく貢献すると共に、「日本にカマモトあり」と世界に知られてから既に7年を経ていた。
 24歳のあの張ち切れんばかりの若さ、驚くべき瞬発力は、多少落ちていたが、彼のプレーは円熟味を増し、相手との駆け引き、味方との協調、ゲームのリードの随所に、長いキャリアと研究心が表れていた。
 そして、彼の技術の基調である確かなインステップキック。ボールを捕らえる巧さと強さは変わることはなかった。


踏み込みには得意の角度が

 右45度からのシュートというのはそうした彼の持つ“芸”の一つ、いや一つと言うより出発点と言った方が良いかも知れない。
 一般的に言って、ボールを蹴るときには、誰にも踏み込みに入るための得意の角度がある。それは目標とボールを結ぶ線に対して、キッカーが蹴るためのアプローチの角度というわけだ。たいていの人は真っすぐ入るより15度から30度くらい斜めから入る方がキックしやすい。ときには45度くらいの人もある。ラグビーのプレースキック(PGを狙うとき、あるいはトライ後のコンバートのとき)のときに、たいていのキッカーは、ボールの後方に立ってゴール(の狙うポイント)とを結び、その線上から、自分のスタート地点を計る。人によっては、後退して歩数を計り、その直線から、正確に3歩とか、4歩とかを移動して、自分の角度を確かめている。
 大抵の人には、個有のスイングがあり、そのスイングと個有のインパクトを生かして、ボールを正確に強く、目標に届けるためには、踏み込みのための個有の角度がある──という訳だ。
 そこで、シュートの場合(強い球を正確に目標へ送る)、ゴールに対して、それぞれ選手に、得意の地域ができる訳だ。

 78年ワールドカップのアルゼンチン代表にベルトーニという選手がいた。右のウィングでドリブルがうまく、スピーディなドリブルで持ち込み、相手ディフェンスを崩す。ワールドカップ決勝の3点目は、彼とケンペスの2人の突破によるのだが、そのとき、彼がキックしたのは、ゴール前の右ポストよりの地点。同じ試合の前半に、見事なドリブルで右から中へ持ち込み、シュートして左へ大きく外し(低い球で)たときも右ポスト寄り、ゴールの左ポストに対しては、よく似た角度だが、走り込んできたコースが違っていた。
 つまり、得点となったのはシュートコースに対して踏み込みに大きな角度があるのに、シュートの外れた前半は、シュートコースに対して、踏み込みの角度がなかったのだった。インステップで蹴るときでも、インサイド側に当てるベルトーニが、ゴールの左ポストへ蹴り込むには、ボールと左ポストの線に対して、ある決まった角度(30〜45度以上)で踏み込まなければならない、と私は見ている。

 釜本選手は、自分の右側に置いたボールを左斜めに蹴る型が得意で、そこからゴール左ポストに対して45度という、一つのコースを作り上げた。彼の話によると、大学生のときに、左からパスをもらい、右足でワンタッチしてボールを右前へ出して、シュートをする練習を相当やったらしい。高校生のときに、すでにシュートという面では特別な才能を見せていた彼が、チームの練習とは別に、自分のシュートの能力を高める反復練習をしたのが後に繋がることになる。大学1年生、つまり19歳のときの関東大学リーグ、7試合で14点を挙げてリーグ得点王となり、64年の東京オリンピックではレギュラーのCFとしても出場した。
 この頃は、まだパスをもらうための動き(マーク相手からの離れ方)などが、もう一息で大学リーグでは点を取っても代表チームでは、まだ「エース」とはいかなかった。彼に与えられた当時の評価は「大器」とか「豪快」などでテクニックと言えば宮本輝紀や杉山隆一らが挙げられていた。そんな中で戦前派の名CF二宮洋一さんは彼を「うまい」と言っていた。
 右のシュートの型をすでに作り上げていたことを同じストライカーとして二宮さんは見ていたからだろう。
 そのころから釜本選手の踏み込みは大きく、ボールの横へ置かれた立ち足は、しっかり体重を支えていた。
 シュートの練習は自分でボールを転がして蹴る、いわばドリブルシュートが多くなる。ボールは向こうへ転がるのだから、立ち足が遠くなりがちで、立ち足が遠ければボールに加わる力は下からになり、シュートは浮く、したがって、低いシュートをするためには、大きく踏み込むことがポイントになる。これを体で覚えるために、繰り返すことで自然に、シュートに対する体のバランスも出来上がる。若い釜本はシュートの練習の中で、自分のプレーの基盤を作っていった。


≪釜本の証言≫
 ボクは若いときから得点することが好きだったし、高校でも大学でもチームの中でのボクの役目は点を取ることだった。
だからシュートの練習は工夫もした。早稲田(大学)では、ペナルティーエリアの右寄りでパスをもらい、右前へボールを出してシュートする練習を繰り返した。シュートコースは、右ポスト(ニアポスト)へドカンとゆくのと、左ポストとネットパイプの間へ、ピシッとゆくのとの2つだった。
 当てるのは右のインステップ。とにかく、強いタマが自分の狙ったところへゆくように毎日繰り返し練習した。
 高さは2メートル44、幅7メートル32のゴールへ蹴り込むには、まずコントロール、それも、高くボールを上げないことだ。そのためには立ち足の踏み込む位置。体のバランスも大切だ。相手のことを考えれば、蹴り足のスイングも、小さく、鋭くすることも心掛けた。右足のこのシュートのコースに自信ができれば、次には、この型を基礎とした、変型が生まれてくる。


ボールに対する鋭い読み

1974年12月28日
天皇杯準決勝、ヤンマー−三菱、後半35分

 1974年の日本リーグで釜本は21得点し(チームの18試合の総得点は47)ヤンマーは2度目の優勝。12月14日のリーグ最終戦から1週間ののち天皇杯決勝大会に臨み、名古屋クラブ、日本鋼管を破って準決勝で三菱と対戦、前半にPKで1−0とリードした後、釜本が80分(後半35分)に吉村からのクロスパスを受けて右45度から強烈なシュートを決めた。
 クロスパスを胸で止めてシュートするのは、メキシコ五輪のヒノキ舞台でも何回か演じた釜本の必殺ワザだが、このときは、そうではなく、ジャンプヘディングを競り合った後、マーク相手のヘディング(ミス)で高く上がったボールが落下するのを、ゴールに背を向けるようにしてトラッピング、振り向きざまに右足でシュートしたもの。ジャンプヘディングで競るときに、ジャンプすると(予備動作で)見せかけて、相手のジャンプのタイミングを、狂わせるのは、釜本の駆け引きの一つ。もともと、彼はハイクロスの落下点、ヘディングのできるポイントを読む能力は素晴らしく、ヘディングの際のポジションの取り方(どこでジャンプするか)、タイミングの掴み方(いつジャンプするか)は、文句なしだ。そして、ボールの強さ、高さを読み切った上で、自分はジャンプをしないで、マーク相手の頭上を超えるボールを受けてシュートへ持ってゆくことも度々あった。
 この三菱との準決勝の次の元旦決勝(対永大)でも、左からのクロスを、相手DFの上を越すと読んで走り込み、右からシュートし決勝点(2−1)を決めている。

 ハイクロスのパスを(足の)シュートへ持ってゆく過程の説明が長くなった。アプローチにつては別の機会にするとして、きょうのテーマである右45度に戻ろう。
 この74年天皇杯(決勝は75年元旦)準決勝のゴールは、まずシュートそのものがまさに「ビューティフル」だった。するどい右足のスイングと狂いのないタイミングのインパクト、低くそして弾丸のようにゴール左隅へ飛び込んだボールの航跡。それは芸術的な香気に満ちていた。
 どんな入り方でもゴールの枠内でボールがゴールラインを越えれば1点というのがサッカーの面白味ではあるが、その中に、何年ものちのちまで語りつがれる名ゴールがある。シュートに至る構成(パスの組み立てや、個人のテクニックの集積)に感嘆するもの、シュートそのものに魅力があるものもある。この釜本の得点は、シュートに至る過程は、吉村のパスと釜本のボールに対する(高さ、強さ、コースの)読みという簡単なものだが、シュートそのものは、ハイクラス。まさに、“風格のあるシュート”と言いたいところだ。
 ハーフボレーを蹴った後の右足のフォロースルー、爪先を目標に向けしっかり体を支える左足、腕の振り、ボールを追う目、その一つひとつが理にかなって、美しい。このシャッターチャンスまでボールを目で追っているということは、踏み込み、インパクトでヘッドアップがなく、それが自然に上体を被せることになり、弾道を低く押さえるのを助けている。
 彼のビューティフルゴールの基礎は正確なインステップキックにある。山城高校時代のコーチ森先生はインステップキックで正確に蹴ることを強調したとのことだが、足の甲でボールを叩くという基本がきっちりできることが、彼が国際級のストライカーになった土台だと思う。


得意の型を基盤に変化づけ

 1975年の秋にアイルランドからシャムロック・ローバーズというチームが来た。モントリオール五輪予選に向かう日本代表の強化の相手として招いたもの。
 9月15日に、徳島で行われた日本ーシャムロックで、やはり釜本の右45度が見られた。左サイドの森孝慈(現・日本代表監督)からのクロスをペナルティーエリアへ入って胸で止め、下へ落として右足でシュートし、ゴール左下へ決めた。GKダンは反応してボールのコースへ飛びついたが、それより早くボールは通り過ぎていた。

 この年の日本リーグ前期、4月20日のヤンマー−東洋工(彦根)で、やはり釜本の右45度からの得点があった。相手ボールを奪った小林がドリブルで前進し、ハーフラインを越え、相手DFを引きつけておいて、右へ走った釜本にパス。ペナルティーエリアの右ライン近くで釜本はこのパスをダイレクトシュート。ボールはゴールの左ポストぎりぎりに入った。相手ボールを奪って小林が中央をドリブルで持ち上がったのは、最初に紹介した75年日本リーグ最終戦の今村の持ち上がりと、同じような形だったが、こういう、誰もが「絶対」と思ったチャンスを、逃さぬところが、さすがと言うべきだろう。
 74年から75年にかけて、つまり、釜本邦茂選手の30歳〜31歳にかけての円熟の盛期ともいえる期間の右45度の得点の内、この項では、私の記憶に残る4つの例を取り上げてみた。
 自分のシュートの型を作り上げ、その右足シュートの型をもっとも生かしやすい地域へ出てシュートする、という一つの見本を見た。そしてこの得意の地域で彼は、密着マークされていようと、ノーマークであろうと、余裕を持ってシュートを決めた。
 この得意の地域での得意の型を基盤に、彼は左足のシュートを加えることはもちろん、幾つかのバリエーションを作り上げていく。それらについては、また次の項で見ていきたい。


≪釜本の証言≫
 右のシュートに自信を持ち、ペナルティーエリアの少し外あたりで、右前へボールを持ち出し、右足インステップキックで得点するようになると、相手も、それを押さえにかかってくる。大学リーグでも、そんな時期があった。右前へ出ようとしても、相手ディフェンスは予知して、その方向を押さえにかかる。
 そこで、右前へ出ると見せかけて、切り返し、左足でシュートするようになった。 左足は、右(利き足)ほどボールに慣れていないが、練習すれば強いシュートがゆく。左のシュートが利くようになって、今度は相手も(こちらに2つのやり方があるから)読みにくくなってくる。そこで、また右のシュートが生きるということになる。
 ワンパターンでは、何をするにも、相手に読まれてしまう。だからサッカーでは、自分の得意な型を生かすためのバリエーションが必要となってくる。
 それが何かを自分自身で工夫し、見つけ、作り出すことが大切だと思う。


(サッカーマガジン 1983年12月1日号)

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