賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >利き足から左足へ

利き足から左足へ

両足のシュートで国際的に成長

「大学で、膝と腿の所に力を入れても筋肉が3つに分かれないのがいるんですョ」と、かつて日本代表のH氏がこんなことを言っていた。
 れっきとした1部リーグの選手だと言うから、ちょっと驚いた。と同時に、ああ、それはキックの練習が少ないんだな、とも思った。

 この項では、前項に続いて、日本の生んだ名ストライカー釜本邦茂選手の左足シュートの2場面を取り上げることにした。
 ペレはよく「右でも左でもキックできるようになりなさい」と少年達に言う。また、彼の書いたテキストにもそうある。彼自身が、右のシュートも、左のシュートも上手だった。ペレほどにはゆかなくても、左を使えることは実戦の上では随分有利、不利が違ってくる。
 外国の選手の中には、偉大なプスカシュ(ハンガリー)が99パーセント左足を使ったように、左利きの名手が多く、彼らが試合中ほとんどのボールプレーを左でするものだから、日本のプレーヤーの中にも、利き足一本という選手も増えているらしい。
 もちろん、試合中、相手に接触されながらボールを扱うためには、利き足(普通は右)がほとんどになって当然で、また利き足というのはサッカー選手では「手」並に働かなくてはならぬのだが、蹴るという点から見ると、利き足でない方(普通は左)も随分活躍の余地があると思う。

 釜本邦茂という選手が国際的なストライカーとなった理由の一つに、右も左もシュートが利いたことが大きい割合を占めていると思う。
 1981年11月、神戸で記録した日本リーグの通算200得点も左だったし、100点目も左だった。
 200点目のは彼の本来の左前へボールを押し出して、右足を踏み込んでのシュートだったが、100点目は、ボールの落下点で競り合いながら左足を前へ突き出すようにし、先の方で蹴ったシュートだった。
 利き足でない左も訓練によって、こうしたバリエーションにもできることを、彼の長いキャリアが示している。
 そして、その長いキャリアの元となったのは、大学生のときのシュートの反復練習にあったのだ。
 彼の35歳のときの左ボレーの写真が手元にあるが、ボールを叩くために後方に振り上げた左足の太腿から膝にかけて、見事な筋肉美が写っている。


≪釜本の証言≫
 人の身体はだいたい同じようにつくられてはいるが、一人ひとりを比べると、全く同じということはない。したがって同じインステップで蹴るといっても、人によっては足の甲の一番高いところに当てる人もあれば、ちょっと外側、あるいは内側に当てる人もあるだろう。
 人によってはインステップで蹴っても、球筋が曲がることもあるだろうが、要は、自分がこの蹴り方をすれば、どこへボールが届くかをつかめばいいわけだ。
 僕はシュートが好きで、ゴールのどこへ蹴る――ということで一つの方ができ、それがパスを出すときのキックにもつながってきたわけだ。
 自分のキック(シュート)の型をつくるためには、反復練習、それも、ただ漠然とボールを蹴るのではなく、どこからどこへ蹴るのか決めた練習を繰り返すことだ。  ペレだって、ベッケンバウアーだって言うでしょう「サッカーの上達には練習だ」と。


敵の力を利用し反転。素早い体勢から強烈な振り

1969年1月1日
天皇杯決勝(国立)対三菱 前半2分

 右タッチライン沿いからヤンマーのMF阿部武信から斜め前へ、中央の釜本へロビングのパスが飛んだ。ゴール正面ペナルティーエリアすぐ外で、釜本は三菱の大西を背にして、左へ止まると見せて右側へ反転し、ペナルティーエリアのライン上で左足でシュート。ボールは、ゴール右ポストぎりぎりにグラウンダーで決まった。
 密着マークの三菱の大西に対し、ゴールを背にした釜本は斜め後方からのロビングを受ける際に、左へ回る(ゴールに向き直ったときには右足シュートの体勢に入る)ように牽制し、三菱の大西が左背中から当たってきた力を利用して右側へ反転したのが第1のポイントとなる。
 第2のポイントは右手側へ反転してから、シュートの体勢に入る早さ(ゴールの方へ向き直り、右足を踏み込み、左足のバックスイングからインパクトまで)。
 第3のポイントは左足でのボールの捕らえ方(左足のインステップで叩いたボールは浮き上がることなく、低いグラウンダーでゴール右隅へ決まった。釜本の左足スイングの早さは、ボールへの加撃の強さとなり、ゴールへ飛ぶボールのスピードも速い)。


大学時代の教訓で得た変化

 このシュートは、試合での唯一のゴールとなり、ヤンマーの天皇杯初優勝の直接の勝因となった。メキシコ・オリンピックでの日本の銅メダル獲得から2ヶ月。24歳9ヶ月の釜本は彼のサッカー選手生活の、いわば前期の最盛期にあった(この5ヶ月後、肝炎となってしばらく試合から離れる)。
 特に1968年1月から2ヶ月間の西ドイツ留学のあと、この天皇杯のゴールまでの1年間は、「正宗の銘刀」の切れ味の感があった。ヘディングのジャンプは高く、相手を外すときの反転は早く、ことにキックの際の蹴り足のスイングの早さは格段だった。

 早稲田の在学中に、彼はすでに右足のシュートは一つの型ができていた。右前へ出て左足で踏み込んでシュートするとき、蹴り足のスイングが驚くほど早いのが特徴だった。右前へ外すレンジが大きいために、相手のDFが普通(自分の左にも右にも対応しようとする)の構えや、普通の位置どりでの応対からは、彼の右足シュートは防ぎにくくなっていた。右前へ出てくることを予知し、シュートのタイミングと判断してボールを押さえるために足を出しても、DFの足よりも早く、ボールは蹴られていた。
 したがって、彼の右のシュートを防ぐためにDFは一呼吸早く、右前を押さえにかかるか、初めから、右前を押さえるために位置を(普通のときより)ずらせておかなければならなくなった。
 こうしたDFが増えて、右前へ出てのシュートが押さえられるようになると、釜本は、右前へ出ると見せかけ、右足で切り返して、左足でシュートするという第2の型を作っていった。
 利き足でないから右ほど、キックに変化を付けられないが、ある意味では、素直なスイングで(キックのポイントは少なくても)強いシュートができる──のが、一般的に言って(利き足でない)左のキックだ。彼の場合も一定の角度で強いシュートがゴールへ入るようになっていた。

 1966年暮れの第5回アジア大会(バンコク)で彼が7試合で6ゴールを挙げたのは、代表チーム内で釜本がエースストライカーに成長しはじめていることの証明ではあったが、彼の右、左のシュートも、シュートの球筋(たますじ)そのものは威力はあっても、トラッピングからシュート体勢への移行に、まだ、もう一段の進歩の余地があった。
 1968年1月に来日し、久しぶりに釜本のプレーを見たデットマール・クラマーと私の間で「パスを受けてシュートへ持ってゆくのに、まだちょっと時間がかかる」という点が話題になったのを覚えている。


留学で磨く反転シュート

 それが1968年(昭和43年)1月から3月までの2ヶ月間の西ドイツ留学で、釜本は見違えるようになった。
 この年3月末から4月初旬にかけて日本代表チームはメキシコと豪州を回ったが、西ドイツの留学先から飛んで、メキシコで代表チームに合流した釜本は、オーストラリアの3試合で見事な4ゴールを挙げた。観戦した同地のサッカー専門記者のアンドリュー・デットレー氏は「ハースト(1966年イングランド・ワールドカップ決勝でハットトリックをした)やマンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベストに比肩する素晴らしい日本のストライカーが現れた」と称賛した。
 私が彼の西ドイツでの成果を見たのは、この年4月14日の日本リーグ開幕試合、西宮球場で開始後20秒に見せた反転シュートだった。ワンタッチで、いい位置にボールを置くこと、体のひねりの早いこと、蹴り足のスイングの鋭いこと、そしてそれら、一連の動作の流れが、リズミカルで、スムーズで、しかも鋭かったこと。(実際に文章でこんなことが言えるのは)彼がゴールを背にして吉川からのパスを受けて反転した動作を、私の目を通して頭の中に焼きついた映像を、もう一度、反芻するからであって、キックオフ後20秒のこのゴール前のシュートはまさに電光石火、第一印象は「早くなった」「スパーッと切った」というところだった。


左右両足のシュートが完成

 こうして右と左のインステップ・キックによるシュートの型ができ、そのシュートの体勢へ持ってゆくためのボールタッチが良くなるという技術的な進歩と、肉体的な強さ、そして、ボールを受ける前の予備動作などの局地戦術の向上があって、68年の日本リーグからメキシコでのオリンピック大会で釜本は彼独特のビューティフルゴールを重ねていった。メキシコでの6試合、日本チームの9得点のうち7得点が彼のヘディング、右、左の足から生まれている。
 その内訳は、
 ・対アルジェリア[3得点](1)ヘディング(2)左足ダイレクト(3)右足35メートルロング
 ・対ブラジル[0]
 ・対スペイン[0]
 ・対フランス[2](1)ドリブルシュート・右足(2)胸でトラップから右足シュート
 ・対ハンガリー[0]
 ・対メキシコ[2](1)胸でトラップから左足シュート(2)パスを受けて右足シュート

 ついでながら、この他の日本チームの2点はいずれも渡辺正で、一つはブラジル戦で釜本がヘディングで落とした球を、一つはフランス戦で釜本が右から中へ回したパスだった。
 オリンピック7得点の内、足のシュートは6点、うち、右が4、左が2となっている。その左の2ゴールは、グラウンダーのパスをダイレクトで蹴ったのとライナー性のパスを胸で落として蹴ったものとがあるが、2ゴールのシュート位置はペナルティーエリア内(ゴールエリアの少し外)正面やや左寄り。この天皇杯のシュート地点と角度はよく似ている。似ているついでに言うならば、オリンピックの2ゴールも天皇杯の決勝点も、彼の左のシュートのときの、蹴り足のスイングは同じということだ。


プロを破った思い切り良さと鋭く押さえたシュート

 1967年6月21日、東京駒沢球場での日本対パルメイラス戦。後半35分。杉山からのパスを受けた釜本が突進、飛び出したGKペレスが倒れながらも掴もうとしたが、ファンブル、このタマを奪った釜本が、ゴールラインから2メートルあたり、ほとんど角度のないところから、左足のパンチシュート。ゴールカバーに戻ってきたジョルジュ(12)が防ごうとしたが、彼の頭に当たったボールはゴールに飛び込んだ。

 東京オリンピックでアルゼンチンに勝ち、次いで1966年のアジア大会で3位となり、この67年10月に東京で開催されるメキシコ五輪予選に向かって、強化に努めていた日本代表が6月18、21、25日にブラジルの名門パルメイラスを迎えたシリーズの第2戦(第1戦0−2、第2戦2−1、第3戦0−2)固く守って、カウンターでなんとかブラジルのプロに一泡噴かせたい、その作戦が成功した試合。
 狭い角度の、シュートには難しい地点から強い球を蹴った思い切りの良さ。その鋭いスイングと押さえのきいた球筋(たますじ)は、釜本というストライカーの個性をよく表しているシーンだ。


常に変わらぬシュートの動作

 釜本がボールの左足で叩いている写真を見ると、上体を被せて、押さえを利かせているのがよく分かる。
 さて、この項では、彼の左足シュートの2つの場面を取り上げてみた。右足の一つの型ができ、ついで左足のシュートの型が完成し、それが、メキシコ五輪の得点王に繋がっていった。いわば上り坂の時期の釜本のフォームだが、こうした、古い写真を見ても、私が感心するのは、彼のシュートの際の立ち足の踏み込みから、蹴り足のバックスイング、振りおろし、インパクト、フォロースルー、といった一連の動作がどれを見比べても、決まっていることだ。かつて、彼の技術を分析したいと、アイモによる連続写真をずいぶん数多く調べたが、右は右の、左は左の、ボールを蹴るための手順の一つひとつが、実にきっちりとしていて、いつも狂いのないことだ。
 この狂いのないインステップ左右のシュートを作り上げたこと。いわば基本をきっちりと作ったことが、彼が世界に通用するストライカーとなったのだと思う。


≪釜本の証言≫
 80年の暮れにバルセロナでユニセフの慈善試合があり、バルセロナFCの相手をする世界選抜の一員に選ばれて参加した。ヨハン・クライフやプラティニやブロヒンやキナーリャなどの現役の一流、いわゆる、スーパースターが集まっていた。ボクは後半に出してもらったが、なるほど彼らは一緒にプレーしてもうまい、ベンチから眺めていてもうまい──と感心したものだ。ただし、そんな彼らを見ながら、キックだけは、ボクもそうヒケをとらないな、と自信を持った。
 利き足の右で、ボクはいろんなボールを蹴れるのも、その自信のもとだったが、同時に、左でもシュートできる。左でもボレーを蹴れる──という、いわば、左右の両方を使えることが、ボクにとって大きなプラスになっていたと思う。
 外国には本当に利き足一本だけでボールを扱い、キックする一流選手もいるが、ボクはやはり、右、左とも(全く同じにはムリでも)蹴れるようにした方がずっと得だと思う。


(サッカーマガジン 1984年1月1日号)

↑ このページの先頭に戻る