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ヘディングシュート

179センチと恵まれた体で数々の試合でゴールを重ねる

 ヘディングは、手の使えないサッカーで、高い球を処理する重要な技術だ。
 そしてまた、ヘディングシュートは、足で言えばダイレクトシュートと同じだから、ゴールキーパーには読みにくいし、またスタンドの観衆には、非常にスペクタクルだ。
 1980年のヨーロッパ選手権決勝での西ドイツ−ベルギーの決勝ゴールは西ドイツのCFルベッシュのヘディングだった。
 1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本代表は、そのスタートの対アルジェリア戦で、釜本邦茂がヘディングによる1点を奪ってから、チームの調子が上がったのだった。
 ケビン・キーガン。あの小さな大選手は「ヘディングは練習の努力が、そのまま成果に繋がる。回数をかけ、タイミングを掴んでしまうことだ」と言い、天才ペレは「ヘディングは、まず第一に、飛び込む勇気を持て」と言っている。
 179センチと日本のプレーヤーとしては恵まれた体を持つ釜本邦茂は、日本リーグや天皇杯で、あるいは国際試合で、彼独特のヘディングによるゴールを積み重ねていった。その中から、最盛期のパンサー(ヒョウ)のごとき華麗なゴールと、円熟期の自信と意義あふれるゴールを眺めることにした。


≪釜本の証言≫
 ボールを蹴ってもらって、それに合わせる。長いキックにも合わせて、落下点へ走る――という練習は、僕のヘディング技術を大きく伸ばす上で大切な練習の一つだった。
 日本代表になった時でも、ジャンプのタイミングが狂うと、コーナーから蹴ってもらって修正した。
 手で投げてもらうのも良いが、やはり生きた球、キックされたボールを使って練習することが大事だ。そのキックの瞬間、ボールが飛び出した勢いや、方向を見て、どこへ来るかを判断することが大切だ。
 味方のコンビネーションが良くなれば、吉村が右足で蹴ればこういうカーブになる、楚輪が左で蹴れば、こういうふうに飛んでくる――ことが分かる。だから、それにあわせての動きもあるわけだ。
 ボールの出る動きを見る、僕の目の高さもいつも一定しているのだ。
 つまり僕の高さも一定しているはずだ。


釜本の飛躍を決定づけた迫力のアーセナルゴール

1968年5月23日
日本代表1−3アーセナル
前半8分、右サイド渡辺正からのセンタリングを釜本はヘディングでゴール、1−1とする

 1967年10月のメキシコ五輪アジア予選でグループの1位となり、本大会への出場権を得た日本代表は、その年12月の三国対抗(ソ連・中央陸軍クラブとチェコのデュクラ・プラハを招いて)、68年1月の対西ドイツアマチュア選抜、3月〜4月のメキシコ、豪州、香港への転戦と、半年間に11試合を重ね、この68年5月にはイングランド・リーグの名門、アーセナルを招待して、3試合を行なった。第1戦(東京・国立)が有料入場者、38,439人、第2戦(福岡・平和台)が13,000人、第3戦(東京・国立)が50,520人。
 当時も今も、観客数の発表は目算で済ます傾向があったが、入場者数も歴史に残る正確な記録という考えから、入場者の半券(モギリ)を勘定したのを(試合当日でなくても)公表したのだった。第3戦の入場者は東京オリンピック以後、初めて国立競技場で5万人を集めたスポーツ競技の(宗教団体の体育祭などを別として)新記録だったが、第1戦の好勝負、ひたむきにゴールを目指すアーセナルの激しさと、それに対抗した日本代表のファイト、さらに釜本の迫力満点のゴールが評判となったためだろう。この同点ゴールはいろんな意味で歴史に残るものだ。

 さて得点の経過は……右サイドのタッチライン沿いでボールを受けた渡辺が、短い横パスを八重樫に渡して前方へ……。八重樫はタテパスを相手DFラインの奥深くへ通す。ゴールライン近くでこのボールに追いついた渡辺がライナーのクロス(センタリング)を送った。センタリングめがけて突進した釜本は、シンプソンとニールの2人に挟まれながら、前へダイビングするように飛び出してヘディング、ボールは方向を変え、いったん上へあがってGKウィルソンの上を越え、ゴールに飛び込んだ。
 釜本がヘディングした位置はニアポスト側のゴールエリアライン、アーセナルのDFはシンプソンが釜本の前(ボール側)、ニールが後に併走し、ボールに対して、シンプソンと釜本の2人がダイビングしたが、釜本の方がボールをとらえていた。着地した写真を見ると、釜本は右肩側から着地し(ということは、ボールを額で捕らえたときに、体のひねりを入れている)、地面にあって、なおかつ、ボールの行方がゴールに向かっているのを目で追っている。


ニアポストの前で勝負する

 この得点の第一ポイントは、ヘディングしたのがニアポスト側であること。アーセナルの決めた得点(3試合で8点のうち6点)にもこのタイプが多かったところから、アーセナルゴールと称したが、その意味では釜本のヘディングシュートは、彼のこれまでとは違ったタイプだ。マークしている敵側の選手のハナ先で、かっさらうようにした。
 第2のポイントは、パスが直接に受ける人を目指すのでなく、受け手の前のスペースへ出していたこと。したがって受け手は、ダッシュを利かしてヘディングをした。


ボールの高さと速さを読む

 釜本選手の得点能力にヘディングが加わったのは大学に入ってからだった。本人に言わせると「背が高くてヘディングで得点するのに有利だと気付いて……」「ゴールが稼げるなら、なんでもやってやろう」とヘディングの練習に身を入れたという。
 東京オリンピックの前年秋、プレオリンピックで、BチームのCFを務めた釜本は、中央線で味方のゴールキックのほとんどをヘディングで処理するようになっていた。
 ボールの高さと早さを読む才能は、この頃から身に付いていた。66年のアジア大会。67年からの日本リーグで彼のヘディングはいよいよ確かな武器となった。ボールのコースと落下点を読み、いい位置へ素早く動いて、ジャンプの体勢に入り、踏み切る。読みが早く、いい位置へマーク相手よりも先に到着しているから同じタイミングでジャンプし、同じ高さまで上がっても、彼の前額部の方が的確にボールをとらえるのだった。
 そしてまた、空中姿勢のバランスが良く、後方や側方から、彼に体を預けてジャンプしても、釜本のバランスは崩れることなく、体をぶつけていった相手は、跳ね返されるか、または(ぶつかって崩したときは)反則をしているかのどちらかだった。
 1968年1月7日の対西ドイツ・アマチュア選抜で、彼は5回以上、ヘディングでチャンスを作って観戦のクラーマーを驚かせた(当時、ドイツのアマチュアはヘディングが強いので知られていた)。


西ドイツ留学で一回り成長

 西ドイツ・アマチュア選抜との試合の翌日から、釜本は西ドイツのザールブリュッケンへ2ヶ月間サッカー留学をして、この間に急速に腕を上げるが、ヘディングについても、この留学後は、一回り大きく、また、より的確になった。
 自分の走っている前方へ来るボールにダイビングするようになったのも、この頃の進歩だった。68年5月の対三菱戦で、後方から吉村が蹴ったロビングを、釜本がダイビングヘッドで決めたのも、その一つだった。
 このアーセナルゴールは、ニアポストへの飛び込みが、トッププロの相手に成功したもので、彼のゴールマウスでのヘディングが、ファーポストであれ、ニアポストであれ、コース上の位置どりであれ、前への飛び込みであれ、ときに応じて多彩に使えるようになってゆくことを示したものだった。
 日本リーグでの99点目は、左サイドからの堀井の早いクロスを、マーク相手よりニアポスト側へ(左へ)出て、ヘディングで決めたビューティフルゴールだったが、これもアーセナルゴールの系列に入るものだろう。


衰えぬ瞬発力、位置どり、飛ぶタイミングの正確さ

1980年9月7日(磐田)
ヤマハ3−5ヤンマー
後半5分、ヤンマー上田のクロスを釜本がヘディングシュートを決めて2−3。釜本は日本リーグで13度目のハットトリック。通算得点は189点)

 ヘディングの競り合いで、重要なのは、ジャンプのタイミング、などということは誰でも知っている筈だ。しかし1980年日本リーグの後期第1戦でヤマハの本拠地で見せた釜本の何回かのジャンプヘディングで、釜本は36歳で、なお瞬発力の豊かなことを示しながら、飛んでくるボールに対する位置どりと、ジャンプのタイミングの正確さ、そして、滞空時間の長いことを、改めて知らせたのだった。


相手を惑わす巧みなだまし

 もっとも、この頃の釜本は、すべてのヘディングのジャンプを、相手より高く飛べるとは限らなかった。日本リーグのDFも大型化が進み、彼より長身で、若く、元気な選手もいた。
 そうした相手、あるいは手を使えるゴールキーパーを相手に、釜本は自分の、ボールのコースや高さを読む判断力をもとに、巧みなフェイントで、相手のジャンプのタイミングを狂わせる術を知っていた。
 飛んでくるボールに対して、相手は常に釜本より早くジャンプしようと思っている。そうしたプレーヤーは、釜本から少しでも動く気配を感じると反射的に反応しジャンプする。
 大抵は早すぎて、ジャンプの頂点を過ぎて、自分が落下し始めたときにボールがやってきて、そのときに釜本が、一番高い位置にジャンプしている。そしてボールは釜本のもの、と、いうことになっている。


精神的に相手を追い込む!

 この時は、ヤマハのGK本田が腰を痛めていたために、余計に焦って、ジャンプのタイミングを狂わせたのだと思う。これは、釜本のフェイントと言うより、ゴールキーパーの方が自滅したという感じだった。といって、若いGKを責めることはできない。この年の釜本は、ケガも治り、久しぶりにフルシーズン活躍した年。ヤンマーの監督兼任となって3年目でチームの力も把握し、自分は、運動量を減らして、もっぱらゴール前に集中していた。
 ゴール前の一つひとつのプレーに集中すれば、磨かれた読みは冴え、その自信たっぷりのヘディングのために、相手は気分的に追い込まれてしまう。若い日本代表のホープだった菅又(日立)でも、この気分的な圧迫のために、ハイクロスに対する判断を誤り、点を取られている。
 自分の読みを信じ、自分のジャンプとヘディングの技術を信じている釜本の強さに、誰もがやられてしまうのだ。
 彼の位置どりの巧さには、彼よりも長身で、高い球の取れるハズの外国選手もやられてきた。68年メキシコ五輪のブラジル戦の同点ゴールは、左からのハイクロスを、ファーポストで釜本がヘディングし渡辺正が、シュートして決めたが、このとき、釜本より長身のブラジルのセンターバックは彼の前でボールを取ろうとして取れず、それまではよく釜本のヘディングを妨害しながら肝心のところでやられてしまったのだった。


≪釜本の証言≫
 ゴール前で、ボールのコースに入って、ヘディングするとき、ボクの背後にいてマークする相手DFに、何度、痛い目に遭わされたか分からない。背中には、相手の膝の型が付き、アザのようになったことも、しょっちゅうだ。
 しかし、それでひるんでしまってはストライカーは務まらない。ゴールを狙うものは、体を張ってでもプレーしなくてはいけないのだ。
 もちろん、後ろからガツンとやられた相手に、黙ってやらせておいていい訳はない。ルールでは報復行為は禁じられているが、そんな大げさなものでなくても、次に機会を見つけて、同じようにやっておく。
 でないと、大抵の相手は、黙って見逃すと、甘く見て、2回目はもっとひどいことをすることが多いからだ。
 ゴール前のサッカーの競り合い、ヘディングの競り合いは、負けないぞという意地の張り合いだし、やはりサッカーは格闘競技なのだと思う。


(サッカーマガジン 1984年2月1日号)

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