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胸で止めてのシュート

正確にボールを止めてシュートへ

 昭和58年の高校選手権大会のテレビ観戦は、随所にいいプレーが見られた。特にクリーンシュートが多かったのは、ここしばらくのサッカー界の傾向「シュート低落」を打ち破った感があって、まことにうれしかった。
 そんな素晴らしいシュートの中でも、清水東・大榎が、対浦和市立の前半に見せた、胸で止めてのシュートは、前進してジャンプし、胸でボールの勢いを殺して下へ落としたトラッピングの巧さ、それに続く、右足の振りの速さは、高校生としては、まさに絶品といえた。大榎は高校へ入る前からすでに上手な少年として知られていたが、この彼のプレー、位置取りからボールタッチ、そしてシュートにいたる一つひとつの動作と、体のバランスに、清水という町のサッカーのレベルの高さが集約されていた。

 セルジオ越後は、コリンチャンスで、あのリベリーノらとともにプロ選手としての経験を持っている。1972年に来日し、フジタ(当時の藤和)でプレーし、日本リーグで活躍した。彼の多彩なテクニックは日本サッカー界に大きな刺激となったが、その彼が驚いたのが、釜本邦茂の胸で止めてのシュートの巧さだったのだ。
「こんなに滑らかに、正確にボールを胸で止めて、シュートの体勢に入る選手がいたのか――」研修熱心なセルジオは、しばらく釜本の「胸で止めてのシュート」を頭の中に描いて、毎日のように鏡の前で、その型を反復練習したという。
 1980年6月イタリアでのヨーロッパ選手権を取材したとき、ジャン・ミシェル・ランケと名乗る、フランス人記者が話しかけてきた。68年メキシコ五輪のときのフランス代表チームの選手で、後にプロとしてサンテチエンヌでもプレーし、現役を退いてからフランス・フットボールで記事を書いていた。
「カマモトは元気にしているか」「まだプレーしているよ。これもやっているよ」と胸で止めて蹴る型をやると、「ソレにやられたよ。彼は本当にビューティフルだった」と懐かしんでいた。


≪釜本の証言≫
 胸でボールを止めるとき、ブラジルのある選手が、全くボールを浮かせないのを見たときには、本当に感心した。それまでクラマーさんから南米のプレーヤーは、ワンタッチでボールをコントロールするということを聞かされていたのが、実物を見て、なるほどと思った。それで、それまで空中に弾ませ、いわばイチ、ニー、サンといった調子でシュートへ持っていったのを、胸のワンタッチでボールをシュートしやすいところへ落としたいと考えて練習した。
 上体のそらせ方のちょっとしたコツをつかみ、身体が覚え込むと、あとは楽になった。
 もちろん周囲の状況にもよるが、すぐシュートに持っていくとき、足元といってもあまり近すぎては、シュートの体勢に入れないから、少し遠目に落とす工夫もした。ヘディングで直接ねらう、胸で止めてシュートする、この2つに自信を持つようになると、ゴール前での浮き球に対する武器が増え、相手DFとの駆け引きも効果的になり、チームの攻め手も増えたのだった。


3位決定戦の重苦しさをはねのけた釜本のゴール

1968年10月24日
第19回オリンピック・メキシコ大会 3位決定戦(アステカ・スタジアム)前半17分
左サイドをドリブルで持ち上がった釜本が、左前方の杉山にパス。釜本はペナルティーエリアへ侵入。ボールを持った杉山は少し前方へドリブルした後、FBをつけたまま、内側、後方へ戻り、釜本へクロスを送る。DF2人の間に挟まれている形の釜本のところへ、杉山からのボールが届く、これを胸で落とした釜本、左足で鋭くシュート。ボールは右ポスト脇へグラウンダーで飛び込む。1−0

 メキシコ・オリンピックの本大会で日本代表は、
 【1次リーグ】
  ○3−1 ナイジェリア
  △1−1 ブラジル
  △0−0 スペイン

 【準々決勝】
  ○3−1 フランス

 【準決勝】
  ●0−5 ハンガリー

 【3位決定】
  ○2−0 メキシコ

 の成績を収め銅メダルを獲得した。1次リーグは作戦通りに勝ち進み、準決勝でナンバー・ワンのハンガリーに完敗した後の3位決定戦は、立ち上がりからメキシコに中盤を支配されて苦しい防戦となった。その重苦しい空気を振り払うかのような釜本の胸のトラップからのゴールだった。

 この得点は、まず  (1)杉山がキープし、釜本がよい位置へ走り込むまでの間を稼いだこと  (2)杉山からのパスが、釜本と杉山の間にいるCFBの頭上を越え、釜本の胸に合ったこと  (3)2人に挟まれている形の釜本が落ち着いて胸で処理し、前へ出てシュートしたこと。  釜本の話では、このときの左足のシュートはボールの中心を捕らえる彼本来のインステップではなく、当たり損ねて、蹴った瞬間は「アッ」という感じだったらしい。実際には、彼のシュートの位置はゴールエリアにかかる少し前、ゴールから8メートル〜9メートルくらいで、ゴールキーパーも角度を狭くするため前進してきていたから、インフロントで引っかけ気味のこのシュートの方が結果としていいコースに飛んだといえる。
 この3位決定戦の1点目は、準々決勝の対フランス戦の2点目(後半14分)が伏線になっている。杉山が左タッチ沿いにドリブルで進むのを見た釜本は、いったん右へ出てからゴール正面のペナルティーエリアへ侵入した。そこへ、杉山がピタリと合わせた。フランスのDFを越えたボールを釜本は胸で落として右足で右ポスト際に決めたのだった。


胸のトラップを吉村に学ぶ

 空中のボールをコントロールするには、ボールの高さや強さに応じて、足、太股、腹、胸、頭などを使うことは、既に皆さんはご存知だろう。まれには腰や肩を使う人もある(手以外は、どこでも使っていいわけだ)。ついでながら、足でボールを蹴ったり(キック)止めたり(ストップ)できるように、体のどの部分でも、ボールを弾く(蹴る)ことと、勢いを殺す(止める)ことの両方ができるわけだ。ペレは肩ですぐ近くの味方にパスをするし、ベッケンバウアーは太股で隣の味方にボールをパス、ゲルト・ミュラーは胸を突き出して仲間にパスしてシュートさせた。逆に言えば額もヘディングでボールを飛ばすだけでなく、ボールを止める自分がコントロールすることも出来るわけだ──それはともかく、胸でボールを止めるのは試合中にも、再三、使われなければならない技術だ。

 早稲田大学の2年生の頃の釜本選手の胸のトラッピングは、飛んでくるボールを一度、胸に当てて上へ浮かせて、落下するのを待っていた。当時の指導法が、まず確実に胸で止めるという風であったこと、また釜本自身も、上背があり、足腰がしっかりしているので、一度、胸で止め空中に高く上がったボールが地面へ落下するのを待っても(体で相手が奪いにくるのをカバーして)ボールは確実に自分のものになっていた。だから中盤では、ボールを突き上げる胸のトラッピングでも別に問題はなかった。
 1967年の4月にヤンマーに入った釜本は、6月に日本代表−パルメイラスの2試合に出場して、ブラジルのプレーヤー達の浮きダマの処理の上手なのに気が付いた。空中のボールを胸で止めるときも、足で止めるときも、彼らはボールをピタッと吸い付くような印象を受けた。

 パルメイラスの来日のときにネルソン吉村大志郎(吉村大志郎)が同じ飛行機で到着し、ヤンマーに加わった。
 このブラジル育ちの日系3世も(顔や体格は全く日本プレーヤーと変わらないのに)ボールをピタッと止める。
 その年の7月下旬から8月上旬まで、日本代表チームは南米へ遠征し、ペルー、ブラジルを転戦した。6試合して1引き分け5敗、総得点1、失点8、釜本は1点も取れなかったが、この遠征で、ブラジル流の“吸い付く”ボールコントロールに大きな刺激を受けた。
 帰国してから彼は、吉村とのパスのやり取りをしながら、どうすれば胸でボールを弾ませずに止められるかを考え、練習した。
 ボールを受けるときの上体のそらせ方(ペレはこのとき、息を吐いて、それまでに膨らませた胸を小さくしろと言っている)方向を変えるときの肩の引き方などは、吉村との個人練習でモノになっていった。
 この1967年秋に、胸のトラッピングで「弾ませないで、足下へ落とす」この練習が、1年後のメキシコ・オリンピックでの準々決勝の2点目、3位決定戦の先制ゴールにつながった。


第2の武器の完成で飛躍!

 胸でボールを弾ませず、ワンタッチで自分の思うところへボールを落とせるようになれば、ゴール前の狭いスペースでも得点が取れるようになる。
 高いパスに対して、すでにヘディングという強力な武器を持っていた釜本邦茂は、ゴール前での胸のトラップからシュートというワザの完成で、第2の武器を持つようになったのだ。
 私は日本リーグでも、国際試合でも、彼と一度ヘディングを競り合ったディフェンダーが、そのジャンプ・ヘッドの魅力を警戒し、次の空中戦のときに、焦って、ジャンプのタイミングを誤り、そのために、彼の第2の武器である胸のトラッピングからのシュートに持って行かれた場面を何度か見た。


西ドイツ・ワールドカップの観戦で再び大きな刺激

1975年5月17日
日本リーグ第7節 ヤンマー−トヨタ1回戦(大阪うつぼ)
後方からのボールを胸で止め反転してボレーシュート

 このとき釜本選手は31歳。1969年6月の肝臓障害の後、驚くべき回復力を見せて2年がかりでこの難病を克服した(それも試合に出場しながら)。そして1974年には日本代表の西ドイツ、ルーマニア遠征に参加、ちょうど開催中のワールドカップを仲間と共に観戦した。ゲルト・ミュラー、ヨハン・クライフや、ベッケンバウアーなどの世界のトップが演じたプレーを自分の目で確かめたことが、その後に向けて大きな刺激となった。
 クライフの恐るべき緩から急への切り替え、ここというときに一発を決めるゲルト・ミュラー、突進の勢いをそのままシュートに集中するポーランド勢。しばらく遠ざかっていた“世界”に釜本は再び意欲を燃やした。この年10月に再開された日本リーグの後期に彼は11得点(前期は10点)を挙げ、前期に4勝3分け2敗(2位)のヤンマーは後期に6勝2分け1敗、合計10勝5分け3敗。勝点では25の三菱と同じだったが、得失点がモノをいってリーグチャンピオン。天皇杯にも優勝し、2冠に輝いた。

 次の75年シーズンもヤンマーはジョージ小林、ネルソン吉村らのブラジル勢が健在で日本リーグ連続優勝を果たしたが、釜本選手は75年も74年に続いて2年連続のリーグ得点王(17点)になっている(通算5度目)。
 いわば1974〜75年のシーズンは、1967年〜68年のシーズンにかけての彼の成長期に続く、彼の第2黄金期ともいえた。

 このトヨタ戦ではチームの6点のうち3点を記録した。
 どういうわけか、私は、この試合を観戦しておらず、彼の後半の胸のストップからボレーシュートには記憶がないが、写真を見れば、画面から、まずこの種の浮き球に対する釜本選手の自信が充分に伝わってくる。
 落下するボールを胸のやや右側に当て、左肩を引いて右足を軸に体を前方に向けるとともに、シュート体勢に入り、左足を踏み込み、右足で落下するボールを空中で叩く。相手ディフェンダーが妨害に来ても、シュート体勢に入ってゆくときの彼は、自分のペースで安定していることを、カメラアイは見事に捕えている。


意識的にボールを浮かせる

 胸のトラッピングのときに、ボールを弾ませずに、足下へ落下させることが、一つの型であり、その実例がメキシコ・オリンピックでの3位決定戦、メキシコ戦の得点であれば、これは、ボールを一度浮かせてコントロールする2つ目の型である。
 ボールコントロールはワンタッチの後、弾ませないこと─というのが原則となっているが、自分の思う高さに「弾ませる(浮かせる)」ことも、またボールコントロールの一つである。
 飛んでくるボールの高さ、速さ、そして、そのときの自分の体勢や敵味方の位置と関係、そんなことを考慮に入れて、初めて実戦プレーが成立する。
 世界の一流の、特に南米の一流プレーヤーは、意識的にボールを浮かせることがよくある。
 釜本選手の、この胸のトラッピングは、彼が胸でボールを滑らせることも、また浮かせる(といっても勢いを殺して浮かせるという意味)こともできること、そして、この2つを臨機応変に使い分けることがストライカーにとって必要なことを示している。


吸収の早さと貧欲さに驚嘆

 釜本邦茂という偉大なプレーヤーの20年を越えるキャリアを横から眺めてきた私には、彼が自分の得意ワザ、自分の型を一つ持った後、それに付加すべき新しいワザに接したときの吸収の早さ、消化することの貧欲さに度々驚かされるものだ。
 小学校のときは小柄で、すばしっこくて、右も、左も蹴り、ドリブルの上手だった邦茂が、中学生になって急速に身長が伸び、高校、大学と、その長身とリーチを生かしたプレーが豪快な破壊力となり、ヤンマーの1、2年目に、プレーの速さが人の目を引く、そんな過程で、ボールの弾まない南米流の胸のトラッピングを見ると、それをものにするために、一人で工夫した。それが、世界中から賞賛されるあの、流れるような釜本邦茂の胸のストップからシュートへ繋がっていった。


≪釜本の証言≫
 いいプレーを見て、これは、と思ったら自分に取り入れることだ。
 1966年のワールドカップで得点王になったポルトガルのエウゼビオが彼のチーム「ベンフィカ」と共に万博の年に来日した。彼の練習のシュートを見ると立ち足の位置がボク達と違っていた。
 普通、ボクらはボールの真横に立ち足をボールより前へ置いて蹴っていた。したがって、蹴り足のインステップはボールの中心よりも上の方を叩く。彼の強い足音で叩かれたボールは地面に擦り付けられるようにライナーで飛んでいく。「ははん、彼のシュートが上がらずに抑えの効いているのはここだ」と思い自分もやってみた。彼とボクとは足の形や体質が違っていたのだろう。ボクにはやはりボクの形がいいのだと思った。
 一見、無駄なようだが、いいと思ったものは身に付けようとしたものだった。胸のトラップも、南米のいい点を反復練習、吉村とのボールのやり取りで彼の動作を観察し、自分にあったプレーにしたのだ。


(サッカーマガジン 1984年3月1日号)

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