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ポストプレー

テキスト通りのヘディング!

 釜本邦茂のヘディングシュートは豪快で、かつ、芸術的な美しさがあった。
 狂いのないジャンプのタイミング、頭でのインパクト、最後までボールを見る目、ひとつひとつの動作は、そのまま生きたテキストだった。
 ゴール前でのポストプレー、ヘディングでボールをとらえ、味方が走り込む地点へボールを落とすパスは正確無比だった。
 ファーポスト側で、クロスのボールを折り返して、ゴール前に落とす形、浅い位置から相手のDFラインの背後へ落とすパス、あるいはニアポスト側でヘディングし、ファーポストへ振る形もあった。
 ときにはヘディングで落としたパスのリターンを受け、自分でシュートして決めた例もあった。
 強烈なヘディングシュートに、ポストプレーが加わって、ゴール前での釜本邦茂の空中戦は、相手にとってやっかいなものとなった。ゴールキーパーにとっても、直接狙ってくるのか、落としてくるのか、読みにくいFWだった。
 それは、ちょうど、右も左もシュートできる彼に対して、相手DFの守備が困難だったのと同じだった。

 そんな彼のポストプレー、ヘディングのパスの中から、2つの例を取り上げることにした。どちらもファーポストから折り返す形で、一つはメキシコ五輪、一つは日本リーグ、彼の24歳と36歳の時のプレーだ。
 ヘディングの正確さが、いかに必要か、若いプレーヤーのボールテクニックが向上し、中盤のプレーに余裕が見られ、攻撃の組み立てが進歩した傾向を喜びながら、それゆえにこそ、ゴール前での空中を制するワザと力を、磨いてほしいと思うこの頃だ。


≪釜本の証言≫
 ヘディングで大切なのは、まず正確に当てることだ。そのためには、ボールをいつも見つめること。豪快にヘディングシュートはするが、ヘディングのパスは上手くゆかない――というのは、きっと正確に当てていないからと思う。
 投げてもらい、そのボールを正確に狙った所へ飛ばす練習を繰り返すことだ。
 ボクは高校のときから身長が高かったので、高いボールを取るのに、そう苦労はしなかったが、大学に入り、代表チームに入るようになってから、ジャンプ力を付け、より高いボールが取れるようにした。
 相手と競り合うときのジャンプヘッドには駆け引きも必要なことは、前にも言ったが、やはり大切なのは、まず、ボールのコースを見極める判断力と、ボールを額でとらえて、正確に、思ったところへ飛ばすことだ。
 キックと同じように、やはりヘディングも基礎が大切だと言える。基本が出来れば、後は負けん気だ。


額にきちんと当て、狙った所へ落とす正確なヘディング

1968年10月16日 プエブラ
日本1−1ブラジル(0−1/1−0)
後半38分、左サイドの杉山からのハイクロスをファーポスト側、ゴールエリアの角辺りで、釜本がヘディングでゴール正面へ落とし、走り込んだ渡辺が右足でシュート。ゴール右下隅に決まる

 メキシコ・オリンピックのサッカー競技は1968年10月13日に始まり、26日までの14日間にわってメキシコシティ、プエブラ、グアダラハラ、レオンの4都市で開催された。
 本大会参加16チームを4組に分け、組内での総当たりリーグを行ない(10月18日まで)各組上位2チームが、準々決勝(10月20日)準決勝(10月22日)へ進出。3位決定は10月24日、決勝は10月26日だった。

 日本はスペイン、ブラジル、ナイジェリアと共に1次リーグはB組に入り、プエブラとメキシコシティ(アステカ・スタジアム)を会場とし、まず10月14日にナイジェリアを3−1で破った。同じ日にスペインがブラジルを1−0で下し、16日に第2戦、スペインはこの日にナイジェリアと対戦していた。

 試合は、前半8分に、CKからヘディングで1点を失い、いささか苦しい展開。後半に釜本(前半はリンクマン)をトップに上げて突破をはかったが、ブラジルの守りは固く、なかなか点にならない。残り8分のところで日本は松本に代えて渡辺を投入。2分後に、杉山─釜本─渡辺のゴールが生まれた。
 攻勢を続けながら、ブラジルの固い守り、反則、時間稼ぎなどに悩まされ、点が取れないままに過ごした83分間、もしここで得点できず1−0で敗れていたら、1次リーグの形勢は大いに変わっていただろう。
 私はこのシーンを見るたびに胸の中で「よかったな」とつぶやくのだ。

 ここでのポイントの第1は杉山のハイクロス。タッチ沿いから、少し中へドリブルしてから、逆サイドのゴールエリア外へ振ったこと。ゴールマウスならGKが飛び出してくる。釜本がヘディング一発狙っても、相手のCFB(センターフルバック)は長身だ。ファーポストより更に向こうへ蹴ったのは正解だった。
 第2に釜本のヘディングパス。彼の「読み」の良さについては、すでに触れた。ボールが蹴られた瞬間に、その強さ、速さ、高さとコースを読み、落下点を推測する。その位置の計算の確かさは彼の最大の武器になっている。この場合も、早々と、落下地点へ入っていた。彼よりもボールに近いところ(つまり彼の前)にいた長身のCFBも他の2人も、ボールに届かず、釜本はヘディングでゴール前へボールを落とした。
 彼のこういうときのヘディングは力みはなく、また首や上体の振りもあまりない。額にきちんと当てて狙った所へ落とすだけだ。それだけに、正確にボールは思った地点に落ちることになる。
 第3は、もちろん渡辺のダッシュ。点を取ることに特殊な才能を持つこのベテランはクラマー・コーチや長沼監督の期待を背負って、このプレーの直前に松本に代わってフィールドに入っていた。杉山のクロス、それに併せる釜本の構えを見たときに、彼がチャンスを逃すハズはなかった。

 3つのいいプレーの結びつきなのかで、今日のテーマであるポストプレーのヘディングについて、もう少し考えてみよう。


西独留学でヘッドも成長!

 日本代表チームで釜本のヘディングがパスの武器となったのは、1966年の第5回アジア大会からだろう。1963年、早稲田大学1年の頃からヘディングは上達し、1964年の東京オリンピック(釜本は大学2年生)を経て、66年には代表チームのエースストライカーになっていた(大学4年)。そして、彼の頭に合わせて直接ゴールを狙わせること、彼がヘディングで落とすボールの落下点を誰かに狙わせることが得点パターンになっていた。
 66年12月17日、バンコクでのアジア大会2次リーグA組の日本−タイの5点目(5−1)は釜本のヘディングパスを桑原楽之(やすゆき)が決めたものだ。

 その翌年、1967年2月に来日したソ連のオリンピック・チームとの3連戦で、0−2、1−3、0−0と1分け2敗に終わった日本の唯一の得点は、西京極での第2戦で、左FKから杉山─釜本と渡り、右にいた釜本がヘディングで落としたのを宮本輝紀がクリーンシュートしたものだった。ソ連の名監督カチャーリンは杉山と共に釜本に注目した。
 1967年4月にヤンマーに入り、日本リーグに登場した釜本が、68年1月から2ヶ月間、西ドイツのザールブリュッケンへ留学したことは読者も既にご存知のこと。その留学期を含めて67年、68年の2シーズンでの彼の進歩についても、先に紹介した。
 ヘディングもまた、この期間に伸びた。ジャンプヘッドでゴールを狙う、そのジャンプの高さ、彼の額にとらえられたボールが、ネットに突き刺さる凄まじさは、日本のサッカーの大きな魅力となったが、私はその華やかなヘディングシュートと同様に、彼のヘディングパスの正確さに目を見張ったものだった。


上体の振りが正確さのカギ

 彼のヘディングはテキストにある基本通りで、落下点を見極めて、いい位置取りをし、高くジャンプして、最高到達点でボールを捕らえる。ボールを迎えるところから、インパクト、更に、その後も目はボールから離れていない。私は、彼のプレーを分析するために、何種もの連続写真を調べてみたが、いつ見ても全く変わらないのに、大変驚いたものだ。
 その位置取り、ジャンプから、インパクトへの正確な流れが、そのまま、狙った地点へボールを落とす、彼の素晴らしいヘディングパスになっている。
 特に釜本選手のヘディングは垂直ジャンプが多いこと。上体の大きな振りを伴わないので、狂いが少ないのが正確さに繋がっているといえる。

 イタリア代表のストライカー・ベテガはロブのボールに自信を持ち、重要なゲームでヘディングを決めるプレーヤーだが、ベテガの特色は、上体の「ひねり」にあった。大きなひねりを伴い、右ポストの外側からヘディングしてゴール左上隅へ叩き込む――といったような大ワザも生まれるが、反面、大きな角度の方向転換でもないのに上体のスイングが利きすぎて、ゴールを外してしまうこともあった。
 釜本のヘディングには、そういう失敗は少ない。だからヘディングのパスも正確に落ちる。そのとき味方が、そこへ、飛び込んで来るかどうかが得点を挙げるために問題になるだけだ。


≪釜本の証言≫
 ブラジル戦の1点はよく覚えている。とにかく負けていたのだから渡辺さんの同点ゴールはとても嬉しかった。
 左から(多分、杉山さんだろう)のクロスが来て、ボクはファーポスト(といってもゴールエリアの端くらいかな)側にいて、ボールが見えたとき、これは取れると思った。それまで長身のFBに妨害されて、取れていなかったが、このときは、相手側が読みを誤った。
 こういうときの僕のヘディングは、まったく「そこへ」落とすことだけだ。
 このときも、ちょっと反り気味で、額に当てただけと思う。
 前にブラジル選手がいたし、とっさのことだから、渡辺さんの姿が見えたわけではない。しかし、あそこへ落としたら得点に繋がる――という場所へ落としたのだ。
 これはヤンマーでも同じこと。ゴール前のヘディングのパス、ポストプレーは、まず、どこへ落とすかを決めて、そこへ正確に落とすことが第一だ。


豊富な経験と得点への意欲で肉体の衰えをカバーする

1980年9月14日 大阪・長居
ヤンマー3−1日立(0−1/3−0)
前半は日立が1−0でリード、後半1分に楚輪が同点ゴール、後半8分に、右からのクロスを釜本がヘディングでゴールマウスへ、これを楚輪がダイビングするように飛び込んでヘディングで2−1とし、ヤンマーが、逆転した

 1980年は釜本にとって、「監督(選手兼任)」の3年目であり、特別なシーズンだった。体の故障の回復した「ストライカー監督」は自らチームの前線に立ち、リーグ優勝を目指した。
 密着マークや激しいタックルを受けるトップにいることが、ある時期には苦痛になったこともあった。自分のスピード、体のキレが盛期に比べて劣ってきたのを自覚すれば、なおさらCF(センターフォワード)のポジションは「しんどい」ものだったのかも知れない。
 しかし、この年の彼は、そうした悩みを乗り越えていた。相手のマークが厳しくても、自分のポジションはゴール前だと割り切った。運動量を少なくし、その分、ゴール前の大事なところでの、一つひとつのプレーに貯めておこう。──こうした彼の考えは、その「老熟」ともいうべき経験ワザと、なおも見事に維持された肉体によって、随所に光彩を放った。
 大舞台の場数を踏み、世界の優れたディフェンダー、ゴールキーパーと対決してきたキャリアだ。そのキャリアと持ち前の得点への「欲望」を重ね、ひたすらゴール前でのプレーに精神を集中すれば、相手の若いディフェンダーを、自分の掌に包み込み、さあ、というときに無力にしてしまう術が自然に沸いてくる。
 かつて打倒・釜本を目指して精進した、彼に近い後輩達が、体力の衰えからCFBのポジションを若手に譲ったのも、この年の釜本には幸いだったのかも知れない。


ゴール前で相手を常に困惑

(1)ヘディングをするか(2)ヘディングをしないのか。(3)ならいつジャンプするのか。そして、そのヘディングはゴールを直接狙うのか、どこかへ落として味方に突っ込ませるのか――彼のゴール前でのプレーは、いつも相手に疑心を起こさせ、困惑させた。
 80年の日本リーグ、対日立戦で、日立の菅又選手の後方で釜本はジャンプし、高いところでボールを取っている。普通、若いDFは、彼とヘディングの競り合いを続けるうちに、とにかく、前で取ろうとして、彼より前(ボールのニアサイド)へ出て、ジャンプのタイミングを失敗(大抵早すぎる)することが多い。このとき、菅又選手は釜本と何回かヘディングを競り合い、競り勝つか、妨害していたハズだ。それが、肝心のときに、後方からジャンプした釜本の下になってしまった。ジャンプして手を前へ突き出し、その腕で自然に相手を押さえる形にするのは釜本のヘディングの一つの型だ。
 恵まれた上背で、まず豪快なヘディングシュートで得点することを身に付けた。その基礎の上に、ポストプレー、ヘディングによるパスの正確さが加わった。上体の振りが小さいから、ヘディングのシュートが来るのか、パスになるのかゴールキーパーには読みにくい。
 そのうえ、彼は、その得意のヘディング(相手にとって脅威となる)にゆくと見せかけて、ジャンプせず、相手がジャンプのタイミングをミスしたとき、そのボールを胸で止めてシュートに持ってゆく、という(ヘディングをするか、しないか)選択もある。
 サッカーという競技は、すべての局面でボールに触れるプレーヤーに主導権がある。そこにサッカーのプレーヤーの自由があり、楽しさがある。
 36歳、1980年の釜本は、ゴール前に集中することで、サッカーの“自由”をスタンドの私たちに味わせてくれた。


(サッカーマガジン 1984年4月1日号)

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